英ヴィクトリア女王とロシアとを結ぶものは何だろう?

ヴィクトリア女王の肖像画

ヴィクトリア女王の肖像画

Franz Xaver Winterhalter / Royal Collection
 1837年から1901年まで大英帝国を統治したヴィクトリア女王は、ロシアに侮蔑感を抱いており、しかも英露両国は国際舞台で常にしのぎを削っていた。にもかかわらず、女王にはロシア皇室との縁がいくつかあった。

1.ロシア皇帝にちなんだ命名

アレクサンドル1世の肖像画

 ロシア皇帝にちなんで命名された、などと言うと、あなたは、ヴィクトルという名のロシア皇帝はいたっけな…と思うかもしれないが、そういうことではない。

 今から200年前、1819524日に生まれたヴィクトリア女王は、フルネーム、アレクサンドリナ・ヴィクトリアとして洗礼を受けた。彼女のゴッドファーザー(代父)、ロシアのアレクサンドル1世から、最初の名を受け継いだのである。もっともそれは、彼女の洗礼にアレクサンドル1世が直接立ち会ったということではない。

 アレクサンドリナは、彼女の年配の親類が選んだ名の一つで、洗礼式には、彼女の叔父、ヨーク公が代表として出席した。

 「アレクサンドル1世は、洗礼式には出なかったが、大英帝国の相続人に自らの名前を付けることを許した」。歴史家ナタリア・バソフスカヤはこう説明する。「これは、栄光を象徴する見事な行為だった。ロシアとイギリスは、1810年代にちょうど怪物ナポレオンを敗北させたところだったから」

 にもかかわらず、ヴィクトリアは、その最初のほうの名が好きではなかったので、1837年に王位に就くとすぐにそれを省略したがった。彼女は常に、歴史の中でそれと知られることになる名で、あらゆる文書に署名した。すなわち単にヴィクトリアとして。

2.ロシアの帝位継承者とのロマンス

ロシア皇太子のアレクサンドル・ニコラエヴィチ、未来の皇帝アレクサンドル2世

 1839年、20歳のヴィクトリアが、ロシア皇太子のアレクサンドル・ニコラエヴィチ、未来の皇帝アレクサンドル2世に出会ったとき、彼女はすでに2年間女王の座にあり、王室は盛んに彼女の夫を物色していた。ハンサムな21歳のアレクサンドルがロンドンを訪問すると、ヴィクトリアの目には魅力的なプリンスに見えたようだ。

 「私たちはもう素晴らしいお友達になったと思う。彼との関係はとてもうまくいっていて、私は彼が大好きだ」。ヴィクトリア女王は、アレクサンドルに会った直後にこう書いている。彼女はフランス語で何度か会話を楽しみ、舞踏会で彼と二度踊った。彼らの関係についてはっきりしたことは言い難いが、噂によると、二人の若者はお互いに恋に落ちたという。

 だが、たとえそれが本当であったとしても、ロシアとイギリスは、欧州の二大ライバルであったから、彼らの恋はどこにも行き着きようがなかった。アレクサンドルはサンクトペテルブルクに戻り、ヴィクトリアは、ザクセン=コーブルク=ゴータ公子アルバートと結婚する。が、アルバート公は、1861年に42歳の若さで亡くなり、彼女を生涯喪に服させることになる。

3.容赦なくロシアに敵対する

クリミア戦争中のバラクラヴァの戦い、1854年。英国とフランスがトルコと供にロシア軍と戦った。

 政治上の対立に比べれば、ロシア絡みのそうした感情はすべて、ヴィクトリアには何の意味ももたなかった。彼女の全治世を通じ、ロシアとイギリスの利益は、ユーラシア大陸中でぶつかり合っていた。そして、それは直接または間接の衝突につながった。1853年~1856年のクリミア戦争では、イギリス軍はトルコに与して、ロシアを相手に戦った。

 また、2つの帝国の利害は、アフガニスタンでも衝突した。その結果、両国はいわゆる「グレートゲーム」で、王位を争う地元の両勢力をそれぞれ支持することになった。

 ヴィクトリア女王は、英国政府の指導部に頼っていたため、英国の外交政策を決めたのは彼女ではなかった。だがそれでも彼女は、反ロシア路線を強く支持した。彼女の伝記作家、クリストファー・ヒギンズによると、ヴィクトリアは、自分が男ではなかったこと、そしてクリミア戦争に参加できなかったことを残念がったと記している。

 その後、1870年代に、ロシアはオスマン帝国との戦い(露土戦争)に勝利し、英露両国はあわや戦争という状況になった。英国はロシアが中東を支配することを恐れたからだ。ヴィクトリア女王は言った。「ロシア人たちを信用することはできない」

 歴史家バソフスカヤは、ヴィクトリアのロシア嫌いには理由があると考えている。ヴィクトリアが、主に国の象徴として奉仕することになる立憲君主制を受け入れたとき、ロシアの君主制は絶対的なそれとして残っていた。「自分が正しい道を進んでいると確信するために、いわば否定的な例がヴィクトリアには必要だったのだと、私は思う」。バソフスカヤはこう述べた

4.ロシア皇女の義理の母となる

マリア・アレクサンドロヴナ、アルフレッド(ヴィクトリアの次男)と彼らの子供。

 ヴィクトリアの対露感情を考えると、彼女は、次男のアルフレッドが、サンクトペテルブルクで、アレクサンドル2世の唯一の娘、マリア・アレクサンドロヴナと結婚したことに、あまり満足していなかっただろう。しかし、王子がマリアに恋していたので、ヴィクトリアは我慢しなければならなかった。

 「私はまだマリアの人柄を知らないし、まだ多くの困難なことがあるかもしれない。それで、私の考えと感情は、どちらかといえば複雑だ」。ヴィクトリアは日記に記している。

 マリアは、英王室に嫁した最初で最後のロマノフ家皇女となった。彼女は英国で勝手気ままに振る舞い、当地の気候、人々、食事、宮殿、オペラ、とくにヴィクトリア女王に不満だった。マリアは父親への手紙のなかでヴィクトリアを「間抜けで頑固な老いぼれの愚か者」と呼んでいる。しかし、夫アルフレッドが、自分の叔父から称号を受け継いで、(ドイツで)ザクセン=コーブルク=ゴータ公となった。そこでドイツに移ったマリアは、もっぱら義母の顔を見ないで済むので嬉しかった。

5.ロシア最後の皇帝の結婚を不安を抱きつつも祝福する

ニコライ2世、妻のアリックス(洗礼後はアレクサンドラ・フョードロヴナ)と彼らの子供たち。

 ヴィクトリアは、強大な帝国の君主ではあったが、自分の親戚がロシア人と結婚し続けることについて、何らなすすべがなかった。それは、欧州周辺の若い王族の結婚市場が限られていることを考えるとよく理解できる。

 1894年、ヴィクトリアの孫娘、ヘッセン大公女ヴィクトリア・アリックスが、ロシア帝国の皇太子ニコライ・アレクサンドロヴィチと婚約した。ヴィクトリア女王は、個人的にはニコライが好きだったが、結婚には反対した。ロシアは、政情があまりに不安定で、若い女性にとっては安全ではないと思ったからだ。

 にもかかわらず、アリックスがドイツに住んでいた間は、ヴィクトリアの影響は決定的なものではなかったので、女王は、孫娘の決意をもう一度許さなければならなかった。とはいえ、確かに未来の皇帝ニコライ2世とその婚約者との間には愛があった。これはある程度ヴィクトリアを慰めた。

 「彼女と彼ほど、献身的な愛情を捧げ合った者はいない」。ヴィクトリアは二人の婚約について日記に記した。「これは私の一つの慰めだ。さもなければ、危険と責任が私を不安でいっぱいにする」

 彼女の不安は、根拠がなくはなかった。結局、ニコライ2世とアリックス(アレクサンドラ・フョードロヴナ)は、1918年にボリシェヴィキにより惨殺され、ロシア革命を生き延びることができなかった。

 ヴィクトリアには幸いなことに、彼女はそれを見ずに済んだ。彼女の生涯は1901年に終わり、信じがたいほど長い治世に終止符を打った。

 ロシアを含むヨーロッパの王家との関係にかかわるヴィクトリア女王のアーカイブと遺品は、ワイト島のイースト・カウズにある旧王宮「オズボーン・ハウス」にある。

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