あわやロシアの植民地になりかけた場所5つ:ハイチ、カリフォルニア、ソマリアなど

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 カリブ海のいくつかの島がロシアの旧植民地だった、あるいは、ハワイがロシア帝国に併合されていた――。こんな状況を想像してみてほしい。実際のところ、ロシアはすんでのところで、トバゴやハイチのような常夏の地をエキゾチックな植民地にするところだった。

1.トバゴ 

トバゴ。1677年。画家:ロメイン・デ・ホーゲ。

 このカリブ海の島は、かつてはクールラント公国の植民地だった。この小さな公国は、バルト海沿岸に16世紀から18世紀にかけて存在した。クールラント公国のヤーコプ・ケトラー公(1610~1682)は、アフリカとカリブ海にいくつかの植民地を獲得しているが、そのうちの一つがトバゴだった。

 1710年に、この国のフリードリヒ・ヴィルヘルム公は、アンナ・イヴァノヴナ(後のロシア女帝)と結婚したが、間もなく病没し、アンナが1711年~1730年に公爵未亡人としてクールラントを統治した経緯がある。だから、トバゴ は、ロシアの海外の一領土となっていたかもしれないのだ。

 1795年、クールラントは、領土を活発に拡張していたエカテリーナ2世のロシア帝国に組み込まれた。その植民地も同じ道をたどることが予想できた。

 ところがクールラントの植民地は、1661年にすでに大英帝国の版図に含まれていた。クールラント公が英国の融資を受ける間にそれを担保にしたからだ。

 エカテリーナ2世は、クールラントとの関係を利用して18世紀後半にトバゴを手に入れようとしたが、彼女の努力は無駄に終わった。

2.カリフォルニア 

1828年、カリフォルニア。ボデガ・ ベイ、フォート・ロス。

 アメリカにおけるロシアの領土は、アラスカだけではなかった(アラスカは結局、1867年にアメリカに売却された)。ロシアは、カリフォルニアの土地も支配下に置いていた。フォート・ロス(ロシア要塞 Fort Ross)は、ロシア帝国の国策会社「露米会社」により北米西海岸に建設された。現在そこには、ソノマ郡(カリフォルニア州)がある。

 フォート・ロスが存在したのは30年足らずで、1812年から1841までだ。ロシア領だったアラスカに物資を供給する農業集落として形成された。1836年には、260人の住民がフォート・ロスを我が家と呼んでいた。

 スペインとメキシコは、ロシアがカリフォルニアに勢力をのばしていることを喜ばなかったが、ロシア人を力で一掃することには反対だった。ちなみに、ロシアと先住民のインディアンとの間には、大した衝突はなかった。

北カリフォルニア。フォート・ロス歴史公園。1995年1月1日。

 実際、これら2つの集団はどちらかと言えば穏やかに共存していたと報告されている。しかし1830年代後半に、露米会社は、アラスカに食糧を供給する新たな方法を見出したので、フォート・ロスを維持する必要はなくなった。そこで、フォート・ロスはアメリカの商人John Sutterに約2万ドルで売却され、そのうちの一部は金で支払われた。

 露米会社の社員、ドミトリー・ザヴァリシンは、フォート・ロスを訪れ、会社と皇帝アレクサンドル1世のために報告を行った。彼は、帝国をより強くし、経済のポテンシャルを発揮させるために、カリフォルニアのロシア領の拡大を提案した。彼の考えは、農奴を解放し、その自由の見返りとして、彼らを大西洋の彼方に送り込み、新たな土地の開発に取り組ませることだった。

3.ハイチ 

ハイチ人。1890年。

 ザヴァリシンのフォート・ロス拡張計画は、当局によってしりぞけられた。しかし彼はあきらめず、今度はハイチにロシアの植民地を置くことを提案した。彼は、フランスの元将軍ジャック・ボエとともに計画を練った。ボエは、1812年のナポレオンのロシア遠征に際して捕虜になり、ロシアに残っていた。この戦役の前は彼は、フランスの植民地だったハイチで勤務していた。ハイチは、1804年の反乱で、英国の支援を得て独立国になっている。

 ザヴァリシンとボエの提案は、露米会社の関心を引き、同社は1826年にハイチに遠征隊を送ることを計画した。ザヴァリシンとボエは、遠征隊を率いるはずだった。しかしそれが開始される前に、ロシアの政情が計画にブレーキをかける。

 アレクサンドル1世の没後、1825年12月に、ロシア貴族の一部は、新帝ニコライ1世に対し、クーデターを起こす。反乱は鎮圧され、ザヴァリシンは反乱との関係が疑われて、逮捕された。彼は約40年間にわたりシベリアに追放され、ハイチの計画は永遠に葬られてしまった。

4.ハワイ 

上空から見るエリザベス要塞。

 露米会社はまた、ハワイ諸島で4番目に大きいカウアイ島の首長と取引した。首長は、ロシアの一種の保護領として土地を引き渡すことに同意し、1816年から1817年にかけて、3つの要塞がロシア人によって島に建設された。そのうちの2つは、ロシアの皇帝アレクサンドル1世とその妻エリザヴェータにちなんで名付けられ、地元の川はドン(ロシアの主要河川の1つ)に改名された。

 しかし、首都サンクトペテルブルクの当局は、新たな領土の獲得についてあまり喜ばず、ロシア外務省は、露米会社の島を獲得すべしという求めを却下した。「皇帝陛下は、この領土を獲得することは、ロシアに本質的な利益をもたらさず、逆にある程度の不都合をもたらすとお考えである」

 ロシアの君主のこうした立場は、この地域に関心を持っていた英米との関係を維持したいという希望に基づいていた、と説明されている。 

5.ソマリア 

ニコライ・アシノフによるソマリアの探検に関する情報を載せた雑誌

 ロシア人はまた、アフリカの一部も獲得しようと望んだが、この希望も、当局によって支持されなかった。1888年にロシアのコサックの一群は、フランス領ソマリアの一部を切り取ろうとした。

 しばしば冒険家と呼ばれるニコライ・アシノフが率いる150人のコサックが、オデッサからソマリアに到着し、古いエジプトの要塞の中に陣取った。それは「新モスクワ」と命名され、100キロ×50キロの面積の範囲はロシア領と宣言された。

 当時、ロシアとフランスは同盟国になろうとしていた。地元のフランス植民地当局はこうした事態に驚き、パリからの指令を待った。一方パリは、サンクトペテルブルクの意向を確かめつつ、アシノフの一隊の処理について考えていた。

サガロでのロシア要塞(現代のジブチ共和国)。

 結局、ロシア当局は、アシノフの冒険を見捨て、コサックに対するフランスの軍事作戦にゴーサインを与えた。フランス軍は要塞を砲撃し、ロシア人を捕らえた。彼らは故郷に送還され、アシノフは3年間の流刑に処せられた。

 彼は粘り強い男で、アフリカの土地を獲得するよう皇帝を説得する努力を続けたが、すべて徒労に終わった。 

 

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