ジナイダ・ユスポワ。フランソワ・フラマン作。1894年。
エルミタージュ美術館「[ツァーリの]選択を正当化するものは、彼女の高貴な身分ではなく、その人柄だった。同時代人らは、ロシア語で女性の美徳を表す考え得る限りの言葉を使って彼女を描写した。純潔さ、謙虚さ、敬虔さ、感受性、慈悲深さ、それから心の強さ。美しさについての言及はなかった。美貌は幸福なツァーリの花嫁の当然の特徴だったからだ。」19世紀の有名なロシア人歴史家ニコライ・カラムジンは、イワン雷帝の最初の妻にして最初のツァリーツァ(ツァーリの后)であるアナスタシア・ロマノヴナについてこう記している。イワンは、クレムリンに集められた何百人もの候補者の中から一人を選ぶ花嫁コンテストで17歳の美女を選んだ。彼女は背が高くなく、その魅惑的な顔は長い薄茶色の髪で覆われていたという。
イワンと彼女の結婚生活は13年続いた。「彼は若く気性が荒かったため、彼女が称賛すべき愛情と知恵とで彼を制していた」と夫妻についてロシア会社の使節で外交官でもあったジェローム・ホーセイは記している。
1560年に彼女が亡くなると、ツァーリは精神的に深く傷ついた。イワンは彼女が反抗的なボヤールに捕まったのだと信じており、アナスタシアの死をきっかけにイワンのボヤール弾圧の第一波が始まった。アナスタシアはロマノフ家の出身だったが、ロマノフ家は1613年から300年間にわたってロシアの皇位を独占することになる。
アンドレ=エルネスト=モデスト・グレトリの「サムニトの結婚」の演出用の衣装を着たプラスコーヴィア・ジェムチュゴーワ 。
18世紀ロシア最高のオペラ歌手・女優の一人であるプラスコーヴィア・ジェムチュゴーワは農奴の家族に生まれた(ロシアの農奴制が廃止されるのはその一世紀後のことだ)。彼女の家族は貴族のシェレメーチェフ家の所有物だった。プラスコーヴィアはピョートル・シェレメーチェフとその息子ニコライが創設した農奴劇場で演じた。ニコライは若く才能豊かな女優の繊細で洗練された美に感銘を受けた。
しかし、彼が自分の息子に宛てた手紙に書いたように、彼女の美貌以上に彼に大きな感銘を与えたのは、その「誠実さ、慈悲深さ、忠実さ」だった。彼女の人格のこれらの特徴が「私に身分の違いに関する社会の偏見を顧みず彼女を妻に選ばせた」という。彼らは1801年に密かに結婚した。結婚を可能にするため、シェレメーチェフは女優に偽の身分証を作り、彼女をポーランド貴族の出身ということにした。2年後、プラスコーヴィアは息子のドミトリー(先の手紙を宛てられた人物)を生んだ後に亡くなった。まだ34歳だった。
グラッシが描いたマリア・ナルィシキナ。1807年。
マリア・ナルィシキナは数年間ロシア皇帝アレクサンドル1世の愛人だった。同時代人は、彼女の衝撃的な美貌について語り、その中の一人フィリップ・ヴィーゲルは回想録に、彼女の美しさは「非自然的・非現実的」に思われるほどだと記している。1812年のナポレオンのロシア遠征でナポレオンを破ったロシアの有名な軍司令官ミハイル・クトゥーゾフは、マリア・ナルィシキナのような女性がいない限り、女性を愛する意味はないと冗談を言ったとされる。
彼女はアレクサンドルに妻と離婚するよう迫ったが、説得は失敗したと言われる。マリアは皇帝と4人の婚外子を設けた。彼女の夫ドミトリー・ナルィシキンは皇帝の侍従であり、不倫については見て見ぬふりをしていた。
ヴァレンティン・セローフが描いたジナイダ・ユスポワ。 1900-1902年。
公女ジナイダ・ユスポワは、末期の帝政ロシアで最も裕福かつ最も美しい女性の一人だった。ラスプーチンの殺害を計画したことで知られる息子のフェリックス・ユスポフは、母親についてこう書いている。「母は魅惑的だ。背が高く細身で洗練されていて、肌は浅黒く髪は暗く、目は星のように輝いている。また頭も切れ、教養があり、芸術的で、優しい。その魔力から逃げられる者はいないだろう。」
彼女は慈善家としても知られた。ロシア帝国最後の英国大使の娘メリエル・ブキャナンは、このロシアの貴族女性について自著『ロシア皇室の淑女』の中でこう描写している。「彼女は訴えかけてくる人に対しいつでも自由にそして寛大に分け与え、苦しんでいる人の助けとなることをし、その価値があると判断すれば名前を貸し、家を貸し、財産を貸すことのできる人物だった。だが彼女は世間の注目を嫌い、政権上部の厄介事にも関わらないようにしていた。」
ロシアの貴族の中でも特に裕福だったということもあり、彼女は膨大な宝石のコレクションを持っていた。これはロマノフ家のものに次いで2番目の規模だ。1917年の革命でロシアから亡命したさい、彼女は最も大きな宝石を持ち出すことに成功した。
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