重爆撃機「イリヤ・ムーロメツ」の機関銃手, ロシア空軍の 下士官、マルセル・プリャ。1916年。
雑誌「オゴニョク」第一次大戦中の英仏の軍隊に、アフリカ人、ポリネシア人、インド人などの兵士がいたということなら、べつに驚くにはあたるまい。だが、ロシア軍のなかにそういう兵士がいたということになると、これはほとんど信じ難いことになる。にもかかわらず、一人のポリネシア人は、ロシア帝国軍に勤務しただけでなく、その戦功と勇気に対し勲章を授与されてもいる。
重爆撃機「イリヤ・ムーロメツ」の機関銃手, ロシア空軍の 下士官、マルセル・プリャ。1916年。
雑誌「オゴニョク」マルセル・プリャ(Marcel Pliat)は、ロシア帝国で生まれたわけではないけれども、フランス領ポリネシアから十代のときに母とともに移住してきた。まもなく、この未知の、しかもひどく寒い国は、彼の真の故郷となった。彼はロシア語を学んで働き始め、ロシア人女性と結婚し、子どももできた。
第一次世界大戦が勃発したときは、マルセルはフランス国民であったから、フランス軍に入るべきだった。しかしそのかわりに、彼は義勇兵としてロシアのために戦った。この国には彼はより多くの絆があったから。
彼は、優れた技能をもっていたため、ふつうの運転士から飛行機の搭乗員に抜擢された。すなわち、重爆撃機「イリヤ・ムーロメツ」の機関銃手に任命された。
初めのうちこそ、マルセルが外国出身であることは、仲間から疑いの目で見られたが、間もなく彼の献身とプロフェッショナリズムは彼らの心を捉えた。
1916年4月13日、マルセルの搭乗機は、現ラトビアの鉄道駅「Daudzeva」を爆撃せよとの命令を受けた。予想に反し、駅は高射砲で防備を固めていた。彼の爆撃機は、文字通り銃弾を浴びてハチの巣となった。
被弾した同機は急激に旋回し始め、マルセルは操縦席から振り落とされた。彼が助かったのは、しっかり安全ベルトを締めていたからにすぎない。彼は意識を取り戻すと、飛行機の翼の上に這い出て、損傷したエンジンの修理をし出した。
1時間にわたりマルセルは、飛行機の翼の上に立って、強風にめげずエンジンを修理した。この果敢な行動のおかげで、イリヤ・ムーロメツは無事帰航できた。
ロシアの航空機「イリヤ・ムーロメツ」鉄道駅「Daudzeva」の攻撃後。1916年4月 23日。
共有これによりマルセルは、聖ゲオルギー十字勲章勲三等を授与され、下士官に昇進した。
1916年10月、マルセルは、自分の力を示す2度目の機会を得た。彼の搭乗機は、ドイツの戦闘機3機との空中戦に突入。マルセルが2機を撃墜すると、残る1機は逃げ去った。
この空戦での勝利は、ドイツ軍に衝撃を与えた。そのため、その後数ヶ月間は、彼らはロシアの「空の要塞」を攻撃することを恐れていた。この戦果により、マルセルは再び聖ゲオルギー十字勲章勲を授けられた。
マルセル・プリャは、戦場のみならず、航空機の設計にも足跡を残している。パイロットとしての経験のおかげで彼は、有名な航空機(そして将来のヘリコプターの)設計者、イーゴリ・シコルスキーと知り合った。
マルセルは、重爆撃機「イリヤ・ムーロメツ」の設計に関し、いくつかの変更を提案した。これをシコルスキーは受け入れ、同機の将来のモデルに採用した。たとえば、マルセルによれば、機関銃手の座席は、射撃中には非常に邪魔であったので、シコルスキーは、これを折り畳めるようにした。
イーゴリ・シコルスキーによって開発され、第一次世界大戦で使われた航空機「イリヤー・ムーロメツ」。
共有マルセル・プリャは戦死したのか、あるいは家族とともにフランスに移住して、来る革命と内戦の惨禍を避けたのかは不明だ。1916年以降、彼は消息を絶った。その後の彼の運命は、今も不明のままである。
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