なぜロシア女性は戦ったか:第一次世界大戦で「死の大隊」を編成

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 1917年の2月革命後、臨時政府は、厭戦気分の広がるロシア兵士の士気を高めようと躍起になり、女性大隊「死の大隊」をつくった。男の兵士たちの軽侮にもかかわらず、実際には彼女らはたいていの男の兵士よりも勇敢に戦った。

 女性のみで編成されたロシア軍部隊は短命だったが、後世の女性観に影響を与え続けている。つまり、ロシア女性のもつたくましい精神に目を開かせたのである。

 1917年夏に、いくつかの部隊が正式に編成され、実戦に参加し、大きな犠牲を出したにもかかわらず、信じ難い勇敢さを示した。

女性部隊は同年秋までに解散されたが、その例に鼓舞され、全国に女性義勇兵部隊がいくつも現れた。

「ヤーシカ」

マリア・ボチカリョワ

 よくあるように、すべては、自分のもてる力を証明したかった少女から始まった。マリア・ボチカリョワ(1889~1920)は貧しい家庭で生まれ、わずか15歳の時に結婚した。 最初の夫は酔っぱらいで、2番目のヤコフ「ヤーシカ・ブーク」は、賭博好きで強盗だった。マリアは1914年に、悲惨な生活に別れを告げ、軍隊に加わることに決めた。

 「私の心は、戦闘の坩堝へと促された。砲火の洗礼を受け、戦場の業火で鍛えられたいと。私は自己犠牲の感情に圧倒され、我が祖国は私を呼んでいた」。マリアはこう情熱的に回想している。

 しかし当時は、女性は公式には看護師になるほかなかったので、ツァーリに直接手紙を書いて、男たちといっしょに戦う許可を求めた。彼女が驚いたことに、ニコライ2世はそれに自ら裁可を与えた。
 マリアが軍で勤務を始めると、彼女は馬鹿にされ、仲間の兵士にあざ笑われた。だが彼女は、戦場を恐れることなく駆け回り、負傷者を救い出し、50人以上の命を救った。こうして彼女はたちまち、自分の連隊のレジェンドになった。

 当時のほとんどの兵士と同様に、彼女はニックネームを選んだ。自分の夫にちなんだ「ヤーシカ」というのがそれだった。戦場での武勲により、彼女は非任務官(NCO)に昇進。それより重要だったことは、彼女が国会(ドゥーマ)議長、ミハイル・ロジャンコに認められたことだ。

「前進あるのみ!」
 1917年の2月革命で、帝政は崩壊。兵士たちは意気阻喪し、戦線から離脱、脱走し始めた。マリアはロジャンコの支援を得て、女性だけからなる「死の大隊」をつくるアイデアを思いついた。男性兵士が赤面して戦うようにと。しかし、懐疑論者は、女性だけでは士気、モラルがあまり高まるまいと批判していた。

 「私はすべての独身女性に対し責任を負います。規律を厳しくし、彼女らがぶらぶらするのを防ぎます。規律だけが軍隊を救うことができます。この大隊では、私が完全な権限を持つことになり、私は服従を要求します」。マリアはこう言い切った。

臨時政府首相(大臣会議議長)、アレクサンドル・ケレンスキー。

 臨時政府首相(大臣会議議長)、アレクサンドル・ケレンスキーはマリアを支持した。募集が発表されると、看護師、家庭教師、農民、貴族、教育を受けていない女性、大学卒業生など、2000人以上の女性が署名。全員が健康診断に合格しなければならず、頭は剃られた。その後で、彼女たちは、男性の教官が指導するキャンプに行き、行進、射撃、戦術を学び、読み書きができないものはそのための講義を受けた。

 マリアは、規律について嘘は言わなかった。最初の2日間で、約80人の女性がくすくす笑ったとか、教官といちゃついたとか、上官に従わなかったという理由で、大隊から追放された。マリアは、軍服と無表情な顔つきのせいで、昔ながらの軍指揮官のように見え、またそれにふさわしい行動をした。彼女は、然るべき行動をしなかったとして、「女の子たち」に平手打ちを食らわすこともためらわなかった。

 まもなく、最初の2000人の兵士のうち、わずか300人が残るのみとなった。すべて35歳未満だ。募集は終了し、記者の質問にマリアはこう答えた。「我々は戦い、死ぬのみ」
 1917年6月、ロシア最初の、女性のみで編成された「死の大隊」がサンクトペテルブルク(当時はペトログラード)から最前線に向かった。彼女らの軍服の袖には、恐れを知らず死へ挑む印「トーテンコップ」(髑髏)が付けられていた。

女の戦い

 しかし前線の軍隊では、女性新兵たちは、軽蔑をもって迎えられ、男性兵士から「売春婦」と嘲笑された、と歴史家スヴェトラーナ・ソンツェワは言う。臨時政府の軍司令官アントン・デニーキンも、「女性にもっと似合う奉仕の仕方がほかにたくさんある」と述べたが、戦って国を守ることを決意した女性たちを止めることはできなかった。1917年10月までに、ロシアには6つの女性大隊がつくられたが、マリアのそれだけが実戦に参加する機会を得た。

 1917年7月8日、この第1女子大隊は、スモルゴニ(現在はベラルーシ共和国の都市で、モスクワ西方800キロ)付近で戦闘に加わった。男たちが躊躇している間、マリアの大隊は突撃を敢行し、他の部隊を戦いに促した。ロシア軍は、ドイツ軍による14回の攻撃を撃退したが、援軍が到着しなかったために、最終的に後退した。

第1女子大隊。

 戦いが終わったとき、戦闘を行った170人の女性のうち30人が死亡し、70人以上が負傷した。 この死傷者数は、新しい女性大隊の編成を阻止するための口実になり、既存の大隊は、ロシア軍総司令官ラーヴル・コルニーロフの命令により解散させられた。まだ戦うことを望んだ女性たちは、新しい申請書を提出して、通常の正規軍に配属されねばならなかった。

ロシア軍総司令官ラーヴル・コルニーロフ。

 しかし、他よりも長く存続した女性大隊が1つあった。第1大隊の第2中隊である。これはマリアが追放した部隊だが、首都ペトログラード地域に留まり、ロスコフ大尉のもとで第2中隊を編成した。

 1917年10月25日、彼らはボリシェヴィキの武装蜂起に対して冬の宮殿を守ったが、衆寡敵せず、敗北した。何人かの女性たちは強姦され、その夜、一人の女性が自殺している。ボリシェヴィキは、権力を掌握すると、直ちにすべての女性部隊を解散させた。しかしマリアだけは兵士として残った。

 

アメリカのエピローグ

 マリアは、スモルゴニでの戦闘で脳震盪を受けた後、ペトログラードの病院に1ヶ月入院していた。彼女は、ソビエト政権に協力することを拒否したので、反革命活動の罪で告発された。しかし彼女は幸運にも、ヨーロッパに、さらにはアメリカに脱出し反ボリシェヴィキ活動を始めた。彼女は、ウッドロウ・ウイルソン米大統領に会見し、イギリスのジョージ5世は財政援助を約束した。

マリア・ボチカリョワ。

 1918年、彼女は英国の軍隊とともにアルハンゲリスクに戻り、1919年にはオムスクに行き、そこで短命に終わった反ソビエト政権の指導者アレクサンドル・コルチャーク提督に会った。コルチャークは、マリアが女性大隊をつくることを望んだが、1920年1月、ボリシェヴィキは彼女を逮捕した。彼女とコルニーロフ、コルチャークとのつながりは、彼女を「プロレタリアと農民の共和国の不倶戴天の敵」と告発するに十分だった。

 1920年5月にマリアは銃殺刑に処せられた。ボリシェヴィキは、女性大隊の指導者である彼女が決して敵との戦いを断念しないことを理解したからだ。刑は、宣告されたその日に執行された。ロシア政府がマリア・ボチカリョワを名誉回復したのは、ようやく1992年のことである。

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