1917年のロシア帝国の消滅に伴い、帝国のサッカー・ナショナルチームも消えた。選手らは世界中に散り、ある者は第一次世界大戦の塹壕で戦い、ある者は科学分野のパイオニアとなった。中にはイギリスの諜報員となった者もいた。
内戦を経て、新国家が形成されつつあった。国際的に孤立していたこともあり、ソビエトの指導部はソビエトのナショナルチームを作ることを喫緊の課題とは考えていなかった。状況が急変したのは1924年のことで、きっかけはトルコだった。
トルコ代表は最強のチームというわけではなかった。1924年の夏季オリンピック・パリ大会でトルコが登場したのは一試合だけで、チェコスロバキア代表と対戦して敗北していた。しかしトルコは未知のチーム、ソビエトとの対戦を望んでいた。
トルコはFIFAから公式な同意を取り付け、ソビエト連邦に両国代表の親善試合を正式に申し込んだ。ソビエトで招集された体育最高評議会は試合を許可し、ナショナルチームのユニフォームを赤いシャツと白いパンツとすることを決定した。
興奮と期待が急速に高まった。親善試合は1924年11月16日にモスクワで開催される運びとなった。これは他国の代表チームがソビエト連邦を訪れる最初の機会であり、ソビエトのプロパガンダは親善試合を重要な一戦と表現した。
決戦の日が迫る中、ソビエトの新チームが結成された。チームのキャプテンには、有名なサッカーの名門の代表で、バンディー選手でもあったミハイル・ブトゥソフが指名された。
試合当日、ソビエトのクラスヌイ・スポルト紙は試合についてこう書いている。「人々は11月16日の試合開催は難しいだろうと考えていた。丸一週間雪が降り、雪解け水は霜となり、フィールドは氷で覆われていた。しかし自然はこの最も興味深い試合が実現することを許した。観客は15000人で、これはモスクワとソ連にとって記録的な数字となった。」
ソビエト連邦のナショナルチームは3対0で勝利した。平均的な強さのチームに快勝したことは、資本主義の国々がソ連に仕掛けた政治的封鎖に対するソビエト・スポーツの勝利と表現された。これがロシアで一度失われたサッカーの伝統が復興する嚆矢となった。
リベンジ戦はアンカラで1925年5月15日に行われ、結果は2対1でソビエト連邦が勝利した。ニュースはソ連の人々を歓喜させた。
しかし興奮はすぐに冷めた。FIFAがソビエトのナショナルチームがそれ以上試合に出場することに反対したのだ(ソ連がFIFAに加盟したのはずっと後の1947年)。ソビエトの選手たちは大きな試合には出られなかったが、サッカーは依然として国内で発展し続けた。1928年にはモスクワでユニークなディナモ・スタジアムが披露された。
1936年5月22日、ソ連サッカー・クラブチーム選手権の枠組みで、レニングラードのサッカーチーム、ディナモとモスクワのロコモティフが対戦した。
サッカーはたちまちソ連中の人々の心をつかんだ。1940年には北極圏で初めてサッカーの試合が行われた。
第二次世界大戦中の過酷な時期には、サッカーはソビエトの人々を団結させ、彼らに希望を与えた。有名なのは、サッカーチームのディナモとレニングラード金属工場の一戦だ。工員らの多くはかつてプロのサッカーチームで活躍していた。
戦争がようやく終わると、モスクワ・ディナモのイギリスへの歴史的遠征が実現した。イギリスで、ソビエトの選手らはチェルシーやアーセナルを含め、イングランド、ウェールズ、スコットランドの名だたる強豪クラブと対戦した。ソビエトの選手らは4試合中2試合で勝利を収め、残りの2試合は引き分けた。ソビエトのイギリス遠征の成功が、1947年のソ連のFIFA加盟を後押しした。
ソビエトのナショナルチームは急速に国際的な尊敬を集めた。1960年には、ソビエト代表はユーゴスラビア代表を2対1で破り、1960欧州ネイションズカップで優勝、欧州サッカーのチャンピオンとなった。