ロシアのサッカー史上最も偉大な選手レフ・ヤシンにまつわる7つの事実

ヴィクトル・シャンドリン撮影/TASS
 2018年FIFAワールドカップ™が近づくにつれ、ロシア・サッカー史の記憶が呼び起こされている。世界で最も優れたゴールキーパーの一人、レフ・ヤシン(1929~1990)の活躍をロシア・ビヨンドが振り返ろう。

1. サッカー史で最も名高いゴールキーパー

 サッカーではふつうストライカーやミッドフィルダーが最も称賛されるが、ヤシンは例外だ。1963年彼はサッカーで最も名誉ある個人賞、バロンドールを獲得した。未だに彼以外でこの賞を獲得したゴールキーパーはいない。FIFAとIFFHS(国際サッカー歴史統計連盟)の専門家はヤシンを20世紀最高のゴールキーパーと称している

 

2. 労働階級の英雄

 ヤシンが歩んだ道は険しかった。1929年にモスクワの錠前師の家に生まれた未来の英雄は、独ソ戦が始まったとき11歳だった。彼はウリヤノフスク(モスクワから876キロメートル東)で列車の貨物を降ろす作業に従事し、その後は父親と同様に錠前師となる道を選んだ。

 ソ連代表として国際トーナメントで活躍して名声を得た後もなお、ヤシンは自分を労働者と見なしていた。彼はかつてインタビューで「大工が仕事前に木の板に触れるように、試合前にはボールに触れる必要がある。労働階級の習わしだ」と話している

 ソビエトの他のスポーツ選手同様、彼はヨーロッパの選手らほどの給料を受け取ることはできなかった。ソビエト時代の記者エヴゲーニー・ルビン氏はヤシンがレアルマドリードでプレーしていたハンガリー出身の一流フォワード、フェレンツ・プシュカーシュとレストランに行った時の逸話を覚えている。プシュカーシュが食事代を払おうと財布を取り出したさい、ヤシンは衝撃を受けた。「私は未だかつてあれほどの大金を見たことがないし、ましてや稼いだこともない。」

 

3. 極めて忠実

 しかしヤシンは決して西側のクラブでプレーするサッカー選手らを羨みはしなかった。「ロシア以外の場所で暮らすなど想像もできない」と彼は言っていた。彼は自身のクラブ、ディナモ・モスクワに大変忠実だった。20年間(1950~1970)の現役生活をこのチームで全うした。

 しかし、労働地区出身の若者がシニア・チームへ昇進するには数年かかった。彼は1953年にディナモの正ゴールキーパーとなり、以後ソ連の選手権で5度、ソ連カップで3度の優勝に貢献した。

 彼の妻ヴァレンチナの回想によれば、「彼は首脳陣にボーナスを求めることもなく、とても引っ込み思案だった。いつも『これもらって良いのかな。違うかったらどうしよう』と遠慮していた。」彼の謙虚さが一層彼の人気を高めた。

 

4. 彼が試合を劇的に変えた

 ヤシンは革新者であった。彼はいち早く“スイーパー”ゴールキーパーとなった一人だ。現在では一般的で、ドイツの名選手マヌエル・ノイアーをはじめ多くのゴールキーパーがこのスタイルでプレーしている。1950年代当時は彼のプレースタイルは“サーカス”と呼ばれた。しかしこれは時代の先取りだったのだ。

 ディナモでヤシンを最初に指導したミハイル・ヤクシン氏は回想録にこう書いている。「ヤシンは、皆にとって啓示となるような試合を残した数多くの選手と同様、自身の能力を発揮する上で障害となる慣習を打ち壊した。そうして我がチームの戦術の可能性が広がったのだ。」このキーパーは自身が出場したソ連の選手権326試合のうち160試合を無得点で終えた

 

5. 人々に愛されて

 1956年、ソ連のナショナルチームはオーストラリアのメルボルンで開かれたオリンピックで優勝したが、長い帰路が彼らを待ち受けていた。ウラジオストクまで船で行き、そこからモスクワまで列車で向かった。ロシア中のファンが優勝チームを出迎えられるようにするためだ。チームの医師オレグ・ベラコフスキーはある出来事を回想している。「大晦日に髭を生やした男性が袋を持って車両に入って来て『君たち、ヤシンはどこだい』と叫んだ。レフが歩み出ると、男性は彼の前に跪き、袋から一瓶の密造酒と一袋のヒマワリの種を取り出すと、『これが俺たちの持っているありったけのものさ。ありがとうよ、ロシアの全国民からの礼だ!』と言った。」

 

6. おしゃれに

 ヤシンはスター選手らしい服装を心がけた。常に前身黒のユニフォームを着た彼は、その十何さとアクロバティックな身のこなしから“黒蜘蛛”というニックネームで呼ばれた。また彼はトレードマークの帽子をかぶってプレーした。彼はよく「これはお守りだ。いつもかぶっている」と話していた

 ヤシンにはあまり健康的とは言えない側面があった。タバコだ。このゴールキーパーは「タバコは吸う。悪い習慣だとは分かっているが、一日で半箱吸うこともある」と告白している。この習慣がヤシンのプレーに影響しているようには見えなかったため、コーチらは黙認していた。しかし健康への悪影響は必至で、1984年に動脈損傷のために脚を切断している。その6年後に彼は亡くなった。

 

7. その遺産は今なお

 一流のゴールキーパーたち、特にロシア人選手は、自身をヤシンと比較する。そしてその記録が打ち破り難いものであることを認める。「彼のレベルに少しでも近づけたら嬉しい。」ロシア代表チームの現在の正ゴールキーパー、イーゴリ・アキンフェエフは2017年11月、2018年FIFAワールドカップ・ロシア大会™の公式ポスターにヤシンが登場した際にこう話した。

 ロシアだけでなく、世界中がヤシンを記憶に留めている。彼は今なおオールスター・チームに含められる(例えばFIFA 2018は、ヤシンをFUT ICONSチームに入れている)。ワールドカップを3度制したブラジルのスターであるペレは、今でもヤシンのことを「永遠のナンバーワン」と呼んでいる

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