1990年代は、多くの物が配給券と引き換えに分配された。
プティツィン/Sputnikペレストロイカの数年の間に、当局が行った政策の中で、最も論争を呼んだもののひとつが、禁酒キャンペーンだ。これは、1985年にゴルバチョフが政権に就いて2カ月後に始まり、二年間続いた。アル中は、ソビエト時代後期には蔓延していたが、当局が取った措置は、多くの人には極端過ぎるように思えた――価格の高騰、酒店の閉店、アルコール販売時間の制限、結婚式のような祝いの場でもアルコールを拒否するよう呼びかけたこと、さらに、ソ連国内のいくつかの地域のブドウ畑を潰したこと。店の商品不足といった経済的な困難と相まって、このことは、人々をさらに苦しめることになった。さらに、政府の税収にも損害を与えたのである。
この政策は、酒の密造も増やした。ゴルバチョフが、後に自身でも認めたように、禁酒キャンペーンは密造酒の製造を増加させたのである。自家製の酒は、このような機器を使って本格的に行われていた。それと同時に、禁酒キャンペーンは、ソ連の平均余命を大きく延ばし、死亡率を減少させもした。
『論拠と事実』新聞の部数は1990年に3350万部に達した。
ロマン・デニソフ/TASSペレストロイカは、グラスノスチ――おもに新聞や雑誌の自由を意味する「情報公開」の時でもあった。それまで、厳しい検閲と管理下にあった情報が、自由に公衆へ向けて公開され始めたのである。それは、ある種の新聞の発行部数が劇的に増加するという状況を招いた。例えば、ギネスブックに載る発行部数を記録した週間紙『論拠と事実』がそうだ。この新聞の部数は、1990年に3350万部に達し、今日もなお、史上最高の発行部数となっている。このような無検閲の内容に対する一般の要求があり、この新聞は1億人に読まれたのだ。
その頃、ソビエトの月間文芸誌にも同じようなことが起きていた。ペレストロイカ以前も文芸誌は人気ではあったが、百万単位の部数になることなど一度もなかった。グラスノスチは、ソ連で発禁となっていた作品が掲載された雑誌の最新号を手に入れるために、キオスクへと人々を急がせたのだった。最も有名な文芸誌は、『ノーヴィ・ミール(新世界)』だった。1991年の発行部数は、270万部を記録している。今日では、わずか7200部だ。
ソ連のコンピュータ業界は、第二次世界大戦後には、世界を牽引していたのだが、1970年代に、ソ連の経済史上の、いわゆる停滞の時代になるとその地位を失い始めた。そして、1970年代後半、西側で初めて大量生産の家庭用PCが登場してから、ソ連は、国産の家庭用コンピュータの開発に着手したのである。このプロセスは、ペレストロイカの間に、多くの企業が転換を余儀なくされたことで促進された。各企業は、軍需産業の生産をやめ、コンピュータ生産に切り替えたのである。学校でも、コンピュータプログラミングの授業が行われるようになり、ソ連製家庭用PC市場の急成長に貢献した。
ソ連初のIBM互換機Assistant-128は、Elektronika BK(当時、最も普及していたソ連製家庭用PCのひとつ)や、学校の教室で使用されていたKorvetと一緒に生産された。さらに、VektorやVesta、Sura、および、西側のデバイスの様々なコピー品があった。こうしたコンピュータは、ソ連崩壊による経済破綻によって、これらのブランド品がすべて、突然に歴史のゴミ箱へと破棄されてしまうことになった1990年代初頭まで生産されていた。
1980年代後半は、ビデオサロンが急増した。
ボリス・クリピニステル/TASSペレストロイカは、ビデオテープやビデオデッキがソ連にどっと入ってきた時でもある。ビデオデッキを買う余裕のある人などほとんどおらず、手に入れるのも困難だったため、1980年代後半は、ビデオサロンが急増した。これは、小さな公共スペースで、たいていはシンプルなビデオデッキで映画を見ることができた。あまり費用もかからなかったため、若者たちの間で非常に人気があった。そこでは、少し前までは伝説でしかなかったハリウッド映画を見ることができたのである。このようにして、『ランボー』や『ロッキー』が、当時のソ連で、普通のティーンエイジャーの生活の精神的なものとなったのである。
ペレストロイカは、飲むことや読むことや見ることだけではなく、ロシア人たちがどう見せるかという点も変えたのだ。ほとんどすべての人が、ブリーチデニムを着るようになった。ジーンズは、ソ連では、西側のように普及してはいなかったが、需要は高かった。ペレストロイカの期間に国境が開かれると、外国の物資を買いつけてきてロシア国内で売りさばく新たなタイプのトレーダーが多く登場し、隙間市場を埋めていった。ポーランドのジーンズMawinは非常に普及した。
ブリーチデニムはまた、国内のもうひとつの新たなビジネス階級によっても生産されていた。より自由な経済を示唆するゴルバチョフによって承認された新たな経済の形、つまり、共同アパートで仕事をする人たちである。自分たちの起業家としての心意気を試してみたいという人たちが、漂白剤を使って自宅でデニムをブリーチし、販売していたのである。そういうわけで、膨大な数のソ連の人たちが、こうしたジーンズを着用し始めたのだった。
配給券はおそらく、ペレストロイカ期の最も記憶に残る、つまり、どこにでもあるアイテムだ。ゴルバチョフの経済改革は失敗し、ソ連の経済は深刻な危機に陥っていた。その最も目に見える兆候のひとつが、1980年代後半に急速に拡大した物不足だった。その状況のピークは1988年から1992年だった。当時は、多くの物が、この配給券と引き換えに分配された。肉やバター、砂糖、スープ、洗剤などである。地域が違えば、引き換えの量も異なっていた。通常、1か月分の配給には、一人当たり、砂糖1kg、小麦粉1kg、たばこ15箱、肉2kgが含まれていた。1992年に価格が自由化され、赤字がなくなると、配給券もすべて消えた。
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