画像:タチアナ・ペレリーギナ
ペレストロイカ開始から30年
ペレストロイカと「新政治思考」は、類まれな現象となった。これが何であり何故起こったのかという議論には、けっして最終的な結論は下されまい。結果は、余りにもスケールが大きく明らかに予見されていないものであった。ウクライナをめぐるロシアと西側の鋭い対立が深まるなかで、「冷戦」の終結やシステムの対立からの脱却といった主要とみなされてきた成果も、大きな疑問に付されている。
「新思考」は、余りにも理想主義的なものであったため、大方の観測筋は、長いことその本気度を信じかねていた。指導者らの職能の程度や経済危機の影響や状況の巡り合わせなどについていろいろと論じることはできるが、それによって肝心なものが取り消されるわけではない。国の指導部は、全人類的価値と先んじた善意の示威に基づいて、対立を終わらせてイデオロギー的な重圧を取り除くばかりでなく、平等で公平な別の世界の建設について合意することもできる、と実際に信じていた。
政治の振子は、揺れており、一方へ大きく振れれば、それだけ逆への振れも激しくなる。今日のロシアの雰囲気は、ペレストロイカのソ連で支配的だった雰囲気の対極にある。理想主義のかわりに、ときには極限に至るまでの現実主義一辺倒がある。自身の力のほかには、どんなツールもメカニズムも信じていない。西側のパートナーに対する信頼が欠如しているばかりでなく、敵対的および打算的なもの以外のせめて何らかの行動の動機を相手のうちに認めることを拒んでもいる。
なにも驚くことはない。ペレストロイカは、その発案者たちが予想したようには終わらなかった。ロシアにおいて、それに続く時代のコンテンツとなったのは、一つの国家体制の崩壊を克服して別の国家体制を建設する試みであった。得をしたのはソ連の敵対者たちであるが、彼らが最大限の利益を引き出そうとしていたからといって腹を立てても仕方なく、彼らの立場にあったなら誰もがそうしていたに違いない。ソ連は、もしも「冷戦」で勝利をおさめていたならば、オランダやポルトガルをワルシャワ条約機構へ加盟させるべきかどうかで悩むことはなかったであろう。
しかし、そうした経験ののちにロシアの政権が自分の意思で自分を制限するという強者の意欲に対する幻想を保ちつづける、と期待するとしたら、それ以上に奇妙なことであろう。そして、もはや「ゼロ・サム・ゲーム」など一切存在しないという甘言を信じることを期待するとしたら。「人道的干渉」の教訓については、私が言うまでもない。凡てこうした出来事の帰結として、ロシアは、今日、おそらくペレストロイカ以前のソ連以上に周囲の世界に対して警戒感を抱いているのである。
世界の理想主義的な解釈からの逸脱は、説明がつく。懸念を抱かせているのは、裏切られた期待の「ハイパーリアリズム」がスキーマ化や極端な単純化を生んでいることである。 結果に対する不満は、先行する出来事の論理によって条件づけられた、必然的な国の発展段階ではなく、ほとんど外部から持ち込まれた変異のようなものをペレストロイカとその結果に見てとることを、国民の意識に強いている。
人間は、過去を理想化するものである。とりわけ、現在が面白くなく未来が霧に閉ざされているときには。ロシア社会に欠けているのは、歩んできた道の気休め的な糊塗ともそのマゾヒズム的な唾棄とも一切無縁な内省であろう。
新たな国民のアイデンティティーの手探りの模索は、今のところ、次のような状況をもたらしている。人々は、歴史とくに最近の歴史を「歴史的楽観主義」にうまくはめこもうとしており、悲劇的あるいは多元的で多義的な出来事の客観的意味づけを回避しようとする。
ペレストロイカは、劇的に終熄した。しかし、このドラマは、それを地政学的もしくは社会的経済的な面においてばかりでなく、わが国にとってたいへん重要な人間の衝動および刷新や浄化への志向の局面としても評価するに値する。どんな過ちが犯されたにせよ、それらが誰かに利用されたにせよ、歴史におけるそうしたエピソードの役割は、計り知れない。ペレストロイカは、理想主義やより良きものに対する信念の過剰が何をもたらすかを示した。今、私たちは、もっぱらプラグマティズムや不信のうえに何か揺るぎないものを築くこともまた不可能であるという別の認識に近づきつつあるのではなかろうか。
早すぎた革命?
ペレストロイカ開始から30年:早すぎた革命?
写真提供:Rüdy Waks/Corbis Outline/All Over Press
アンドレイ・グラチョフ、ロシアNOWのための特別寄稿
ペレストロイカとその結果、影響に対する見方は、ロシアでは依然として矛盾している。「ゴルバチョフのパラドクス」は、彼の敵も味方の多くも一様に、彼が始めたペレストロイカは破局で終わったと考えている点にある。
誤算と幻想はあったが
その際、ある者は、ゴルバチョフが実現できなかったことのために彼を呪詛し、またある者は、彼がすべての約束を果たさなかったとして糾弾する。
しかし、他の何にも増してペレストロイカの創始者が非難されるのは、その一貫性の無さ、動揺、作戦上のジグザグだ。彼の慎重さ、社会に成熟する余裕を与えた上で無理なく前進させようとする志向、強引に自分について来させるよりは後ろから後押しするのを好むといった姿勢は、多くの人に一貫性の欠如、不決断と受け止められた。
だが、この間に旧ソ連および全世界で生じた主な変化を、ごく大ざっぱにでも拾ってみれば、“煮え切らない”ゴルバチョフのジグザグは、実はほぼ直線をなしていることが分かるだろう…。私見では、ペレストロイカの不朽の成果を挙げると次のようになる。ロシアは、知恵の実の“リンゴ”から、自由選挙とグラスノスチという欠片をかじり、言論・報道の自由を自らの“優先リスト”に加えた。
またロシアは、自分とは異なる文明への異議申し立てをやめ、自身のイデオロギーに全世界を従わせる意図を捨てて、冷戦終結に向けてのイニシアチブをとった。冷戦は第三次世界大戦に発展しかねないことだってあったのだ。こうした歳月の帰結は、ロシア革命後の20世紀初めに二つに分裂した世界史の流れが事実上再統合されたことであった。
ところが、我々が生きるこの儚い現世では、何事も代償を払わずには済まない。自国と世界政治の変革の代償として、ゴルバチョフが心ならずも支払う羽目になったのは、ソ連崩壊と自らの辞任であった。
世界が逃したユニークなチャンス
詰まるところ、連邦崩壊後のロシアも世界も、ペレストロイカの「予防革命」の試験に及第しなかったと言える。ロシア社会は、ゴルバチョフに思いがけず贈られた自由の試練に耐えられなかった。初め、エリツィン時代のカオスと“新興財閥資本主義”の乱脈に沈み込んでしまった国民は、慣れ親しんだ専制的な“強い翼”の下に戻り、ほっとしたのである。
一方、西側もまた、自身を冷戦の絶対的勝者にして歴史の唯一の継承者であると宣言する誘惑に勝てなかった。
その結果、ゴルバチョフの西側のパートナーたちも、彼を裏切った党の元同僚たちと比べても、頼りにならないという点では、どっこいどっこいだったことが分かった――ゴルバチョフは彼らに物資的援助よりも良識を期待していたのだが。
今日彼が西欧を非難するのは、その指導者たちが当時彼を十分助けてくれなかったからではない(彼は、ペレストロイカの成否の鍵を握っていたのは彼らでないことを知っている)。西側指導者たちが、彼の新政策が世界に開いたユニークな機会を理性的に利用できなかった、という点だ。ソ連社会の民主主義への意欲を、単に国内の脆弱さとみなした点である。
冷戦が熱い紛争の多発に変貌
こうして、改革されたソ連がその一翼を担うはずであった「欧州共通の家」のプロジェクトも、欧州における集団安全保障構築のアイデアも、実現されずじまいだった。これは安全保障会議創設を含み、もしそれが実現されていたならば、ユーゴスラビアの流血の紛争の悲劇も、現在進行中のウクライナ内戦のドラマも防止できたであろうに。
要するに、ベルリンの壁を壊すよりも、それを生んだ、政策のツールとしてプログラム化されている敵意の論理と心理に決着をつけるほうが難しかったということだ。
古い「壁」が保たれるばかりか、新しい壁や障壁が出現しているのを目の当たりにすると――そのなかには目に見えるものも見えないものもあるが――、21世紀の今日になっても、元の西側でも東側でも、政治家たちはいまだに偏見や先入見から解放される気がないことが分かる。冷戦が、地球上いたるところに燃え上がる熱い紛争に変わったのは、まさにこのことが原因だろう。
だいたい、あの色あせた冷戦からして――ゴルバチョフはレイキャビク、マルタ、米ソの首都での米大統領との会談で最終決着をつけたと信じていたが――、露米関係に急激に回帰しつつある。
ペレストロイカの理想は死んだか
ペレストロイカの開始から30年経つ今日のロシア社会で、それが失政あるいは“自己破壊的な”プロジェクトと思われているとすれば、それは次のことを意味する。ペレストロイカの主たる動機が、理解されなかったか、故意に否定されているということだ。
この動機は、かつてはソ連社会全体に支持されたもので、ロシアと世界史の再統合、ロシアの民主的更新を目指すプロジェクトだった。それは、言論の自由、法の支配、国の指導部の公正な選挙、個人の尊厳、政治経済におけるリアルな競争原理、政権の社会に対する明確な責任などをともなうものだったのだが…。
*アンドレイ・グラチョフ氏は、ミハイル・ゴルバチョフ・ソ連大統領の元報道官。
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