今はオンラインニュースやライブストリーミングの時代だから、犯罪者は瞬く間にメディアの関心を集める。しかし19世紀のロシアでは、投獄される前にその名が一般に知られた犯罪者は、よほど狡猾で“成功”をおさめた者だけだったろう。ソフィア・ブリュヴシュテイン(1846~1902)は、「黄金の手のソーニャ」のあだ名で、「ロシアの泥棒の女王」として“名声”を得た。それは、彼女の目の覚めるような美貌と冷静沈着なプロフェッショナリズム、そして演劇的なまでに見事な手口のためだった。彼女による盗難事件のすべてが、綿密に練り上げられたショーだった。
「朝飯前」の一仕事
ある盗難事件では、ソーニャは豪華なホテルにチェックインした。彼女は最高級の服を着て、自分の用事に没頭している貴婦人のように振舞った。だから、彼女がホテルをあちこち下見しても、誰も敢えて「どちらへ?」などと見とがめなかった。ソーニャは、こういうホテルの客は、普通は夜通しパーティーに出て、その後は昼まで寝ていることを承知していた。
早朝、ソーニャは柔らかいスリッパを履いて、彼女の“戦利品”を探しに出かけた。
彼女は開いたドアを探し、閉まっている場合は、錠前をこじ開ける道具を使ったりして、中の人が眠っている部屋に忍び込み、服のお金を探した。
しかし、客が目を覚ましたらどうするのか?そのときこそ、ソーニャの腕の見せ所だ。客が彼女の美貌と装いに驚いている間に、彼女は瞬時に客を品定めする。もしそれが老人だったら、彼女は顔を赤らめ、ごめんなさい、部屋を間違えましたと言って、部屋を出る。
しかし、客が女としての彼女に興味を抱いたら、彼女は別の行動をとった。彼女は、部屋を間違えたと言いながらも、「こんなハンサムな紳士と会えてうれしい」という目つきをして見せる…。“愛の仕事”の後で、客はくたくたになって眠りに落ち、ソーニャは冷静に窃盗をやり終えて部屋を出る。ドアマンに呼び止められたら、彼女は彼に金を握らせたり、侮辱された貴婦人のように振舞うというわけだ。
主な武器は美貌と装い
ソーニャは普通の娼婦とはぜんぜん違い、幼い頃から盗みの手口を身につけていった。彼女は1846年、当時ロシア帝国領であった、ポーランドのワルシャワ県のはずれに生まれたが、そこでは、密輸、盗難、強盗に従事する人が多かった。彼女は10代の頃から、綺麗なドレスが好きだったが、主な情熱は金とダイヤモンドだった。
15歳でソーニャは、商人に嫁いだが、彼は、妻のふしだらな生活を理由に、彼女を捨てた。彼女の二番目の夫は、プロのいかさまトランプ賭博師、ミハイル・ブルヴシュテインで、金をくすねる方法をよく知っており、妻も窃盗や詐欺に誘い込んだ。彼女はすぐさま夫よりも経験を重ね、一人で稼ぎ始めた。
ソーニャが有名になったのは主に、告発を逃れる手腕のおかげだった。必要とあらば、警察官、捜査官、刑務所長、看守、あるいはその時々の必要に応じて伯爵、公爵、将軍など、どんな男でもたらし込むことができた。男を誘惑するときには、彼女は本当に熱い恋に落ちたように見え、その情熱で男をとらえた。多くの男は、彼女と数時間を過ごすためにすべて捨てる危険を冒し、実際に、家庭や職場での地位を失った。こうして、彼女は何度も当局の手を逃れることができた。
泥棒の女王
ソーニャは、ロシアの泥棒たちの間で生ける伝説となる。司法当局の「長い腕」を逃れる彼女の能力は、小物の泥棒たちを引きつけ、彼らは彼女を「ママ」または「女王さま」と呼んで、一緒に仕事することを名誉と心得た。
さて、その手口の一つだが、贅沢に着飾った若者たちは、それぞれ別々に宝石店に入る。たくさんの顧客がいるときに突然、若い貴婦人が店主に、いくつかのダイヤモンドを見せてくれと頼む。その女は、ダイヤを、爪を長く伸ばし磨き上げた手にとって、矯めつ眇めつする。結局、女は安いペンダントを買って店を出ようとするが、店主は宝石の一部が無くなっていることに気付く。彼は警察を呼び出し、傲然たる態度の客たちみんなを調べる。 しかし警官は何も見つけられず、店主は、誇りを傷つけられた貴婦人から、ピシャリと平手打ちを頂戴し、彼女は去っていく。そして、彼女とともに宝石も…。
実は、ソーニャの長い爪の中や舌の下に宝石が隠されていたのだが、誰もそこまで調べようとはしなかった。何といっても、彼女は百姓でもその辺のオッサンでもないから、というわけで。
その日の夜、“ジュエリーのバイヤーたち”は皆、ソーニャの奢りで最高級のシャンパンで祝杯を挙げる。彼女が崇拝者たちに奉られたニックネーム「黄金の手」は、こうした比類のない盗みの名人芸を表すものだった。
彼女はそのキャリアを通じ、ロシアのほとんどすべての宝石店から盗んだ。しかし彼女は道楽に慣れていたので、盗んだお金の大半を浪費した。だがその一方で彼女は、自分の2人の娘をフランスに留学させた。彼女は娘たちが自分の二の舞になることを望んでいなかった。
死後も崇拝者、ファンが絶えず
モスクワのヴァガニコフスコエ墓地には、ドレープをまとった女性の大きな記念碑がある。墓碑には「ブルヴシュテイン」と刻まれている。記念碑はさまざまな文句で覆われている。泥棒は墓参りして敬意を表し、願いやメッセージ、時には花や安価な宝飾品を残す。泥棒の女王伝説は150年後も生きているわけだが、しかし、これは実はソーニャの墓ではない。
ソーニャは1902年にサハリンで亡くなり、そこで葬られた。皮肉なことに、彼女のキャリアを台無しにしたのは男だった。彼女は、コチュブチクというギャンブル狂の掏摸に惚れ込んでしまった。
彼は大金を賭博ですったあとで、ソーニャからお金を借りた。間もなく彼はソーニャに金銭的に頼り始めたので、彼女は恋人を養うために、非常なリスクを冒すようになった。
ある時、彼女は金持ちの家に入り、主人が在宅か召使に尋ね、門番が取次に行った隙に、ロビーにあるものを片端から掴んで走り去った。これはソーニャの名高いスタイルからはかけ離れていた。
さらに打撃だったのは、1880年代になると写真が普及し、人々はソーニャを見分けるようになってきたこと。そのため、警察は常に彼女を追跡していた。
彼女はスモレンスクの刑務所から脱獄し、極東の懲罰施設からも逃げたが、彼女が40歳前後の頃、ついにサハリン島に流刑になり、枷をはめられた。
写真家たちは、鎖につながれているソニアを撮影し、そのコピーを船客たちに売ったので、彼女は最晩年まで一種の有名人だった。
「彼らは写真で私を苦しめた」と彼女は言った。長年手錠をかけられていたため、手が不自由になった。「逃げようとしたが、私はもう前ほど強くなかった」
彼女は、自分の娘たちを懐かしみながらこの世を去ったが、娘らは、ソーニャの本当の稼業を知ると、母と絶縁した。
*ロシアの女性たちは、さまざまな危険な職業に従事してきた。ロマノフ家の生き残りの令嬢でスタントウーマンになった人もいる。世界初の女性宇宙飛行士、ワレンチナ・テレシコワは世界中で話題になった。またロシア女性の中には軍人として成功した者や、国の指導者になる人もいた。
編集部より訂正
この記事には当初、手違いによりロシアの詩人アンナ・アフマートワの写真が掲載されていました。お詫び申し上げるとともに、読者の皆様のご指摘に感謝します。