この都市が最初に言及されたのは862年のことで、クリヴィチ族(東スラヴ民族の部族連合体)の主要都市としてである。882年にスモレンスクは、ノヴゴロドのオレグがキエフに遠征した際に占領され、キエフ・ルーシ(現代のロシアの源流である中世国家)の一部となった。
ムーロムは、フィン・ウゴル語族のムーロマ人の主要都市で、オビ川のほとりに建設されている。最初の言及は862年。交易の中心地であり、中世ロシア国家の東の拠点でもあった。
ロストフ・ヴェリーキーは、フィン・ウゴル語族のメリャ人の首府だったという説がある。9世紀にはキエフ・ルーシの一部となった。当時のルーシでは最も発展した、人口の多い都市の一つであった。
ヴェリーキー・ノヴゴロドは、年代記に初めて現れるのは859年だが、その起源は8世紀にさかのぼる。ルーシの首都がキエフに移された882年まで、その中心都市であった。
6世紀にビザンチン(東ローマ帝国)皇帝のユスティニアヌス1世の命令で、アルストン要塞として建設(現在も廃墟が残る)。クリミア半島南岸の重要拠点となった。現代の名称「アルシタ」 は、15世紀につけられた。
212年に遊牧騎馬民族のアラン人によって建設。「Sougdaia」として知られていた。中世には、ビザンチン、ハザール、ポロヴェツ、モンゴルと、何度か支配者が替わっている。現在の名前「スダク」は、オスマン帝国の統治時代(15〜18世紀)の命名である
紀元前5世紀にギリシャの植民者が建てた「Kerkinitis」が起源である。交易の中心地として繁栄したことが知られているが、紀元前2世紀にスキタイ人によって破壊された。中世におけるこの街については資料が少ないが、オスマン帝国の一拠点「Gözleve」がここに建設されている。1783年に今の名称となった。
紀元前6世紀に、ギリシャの植民者が建てた。紀元前355年からボスポロス王国の版図に入る。4世紀にフン族に荒らされた後、ビザンチンとハザールの角逐の場となるが、13世紀にモンゴル帝国の支配下にはいる。
2014年にクリミアがロシアに再統合されるまでは、デルベントは、ロシア最古の都市とされていた。この都市は紀元前6世紀に建設されたと考えられているが、地元の人々は5000年以上前にさかのぼると信じている。
「カスピ海への門」として知られるデルベントは、言わば文明の十字路に位置し、東西南北を結びつける。古代国家「カフカス・アルバニア王国」の一部をなし、コーカサスにおけるキリスト教化の中心地であった時期もあるが、8世紀にウマイヤ朝に征服され、この地域のイスラムの拠点となった。
ロシア最古の都市ランキングで、デルベントの主なライバルとなるのがケルチだ。紀元前7世紀に、ギリシャのミレトスの植民者によって建設された。名はパンティカパイオンである。この大都市は、ボスポロス王国の首都になり、後にポントス王国の首都にもなる。パンティカパイオンは、苦しみつつも、370年代のフン族の襲来を乗り切った。
中世になると、この都市は支配者と名前が変わっていく。ビザンチンの支配下(6世紀〜7世紀)ではボスポロス、ハザールの支配下(7世紀〜10世紀)では「Karcha」(10世紀〜10世紀)、トムタラカーニ公領(キエフ・ルーシの公領で飛び地)の統治下(10世紀〜12世紀)では「Korchev」である。
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