ショアナ聖堂、カラチャイ・チェルケス共和国=
デニス・アブラモフ/ロシア通信これは巨石墳墓で、巨大な岩板からなり、脇に穴が開いている、この建造物は、クバーニ、カフカス、シベリア、さらには白海のソロヴェツキー諸島にさえある(ソロヴェツキー諸島は、モスクワの北方1500キロ。正教の大修道院があり、ソ連時代には強制収容所が置かれた)。この石墳はドルメンと呼ばれ、その外観と古さから、イギリスのストーンヘンジを思わせる。
なぜこんなものが必要だったのか、この穴は何なのか。これについては多くの説がある。ただ一つ研究者たちの意見が一致しているのは、ドルメンの建築年代だ。
現在のロシアの領内にかつて造られたものは、紀元前2000年~3000年紀にさかのぼる。西カフカス(モスクワ南方1500キロの、ゲレンジーク地区とノヴォロシースク地区)だけでも、約2300ものドルメンが発見されている。
オレグ・クラスノフ撮影
これらのドルメンは、何らかの儀式のための建造物あるいは地下墳墓であったと言われている。発掘で多くのドルメンから、様々な時代に属する人骨が、日用品とともに見つかっている(それらは「あの世」で役立つと信じられていたらしい)。また、クラスノダール地方(モスクワ南方1273キロ)のあるドルメンでは、実に72体の遺骨と、神秘的なシンボルが刻まれた石板が発見された。現在、この重量5トンに達する石墳は、モスクワの歴史博物館に展示されている。
地元住民の間には、ドルメンには小人が住んでいたという伝説が伝わっている。彼らはとても小さくて、我々が馬に乗るようにウサギを乗りこなしていたという。
ところで、現在でも、独自にこの建造物を調査し、その丸い穴の中に入り込もうとする旅行者がおり…ときにはそれに成功している。
これは後にルター派の教会となったが、建立は13世紀にさかのぼる。ドイツ騎士団(チュートン騎士団)の拠り所として荒野に建てられた。現在では、カリーニングラード(旧ケーニヒスベルク)最古の建造物となっている。包囲を想定して造られたので、要塞あるいは小さな城を思わせる。
ドイツ騎士団の教会=Wikipedia
堅固な身廊(教会の中心部分)と分厚い壁のおかげで、数世紀にわたり様々な試練を乗り越えてきた。プロイセン王国、第二次世界大戦を乗り越え、大戦後の全ソ連からの人口流入にも持ちこたえたが、20世紀後半、ほとんどの「外国人の遺産」のお決まりの運命をたどった。つまり、解体されてレンガの山となってしまった。
1985年、この建物はロシア正教会の管轄下に入り、完全に修復されて、現在、教会として機能している。
現在のクリミア・ケルチのレーニン広場に、前駆授洗イオアン(洗礼者ヨハネ)教会が建てられたのは、まだキリスト教会の東西分裂(1054年のカトリックと正教への分裂)以前のことだった。一つの円柱にあるギリシャ語の書き込みを信じるならば、757年には既にこの地に教会があったことになる。
教会の起源については二つの伝説がある。そのうちのひとつはより美しく…海から出現したという。この伝説に有利な材料としては、以前、聖堂は海岸にあり、その壁面やドームに多数の貝殻の跡がついているということだ。
前駆授洗イオアン(洗礼者ヨハネ)教会=セルゲイ・マルガヴコ/ロシア通信
もう一つの伝説によると、現在の教会は、より古い教会があった場所に建てられた。その教会を成聖(聖別)したのは、キリストの十二使徒のひとり、アンデレであり、黒海沿岸で布教したという。教会中庭には、石板が保存されており、そこに刻印されている足跡は、信者の信じるところによれば、アンデレか洗礼者ヨハネである。
北カフカスのカラチャイ・チェルケス共和国の山間部にあるショアナ聖堂は、古代建築のなかでも、いわば慎ましやかさのお手本といったところ。横幅はわずか13メートルで、壁画も、豪華な装飾、備品もない。
漆喰の古い層から(一部が剥げ落ちて見つかった)、ギリシャ語、アラビア語、グルジア語、アルメニア語、ロシア語などの、様々な時代の上書きが発見された。北カフカスの各種族の紋章なども見つかっている(教会は、古代アラニヤに10世紀に建立。現在この地は北カフカスに属する)。
ショアナ聖堂=デニス・アブラモフ/ロシア通信
18世紀まで、この教会には古代文献の蔵書があったのだが、消えてしまった。行く先は誰も知らない。
その後、聖堂は男子修道院となった。この地ショアナには、中世の墳墓が多数ある。ここに聖堂が建立されたのはそのためかもしれない。
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