M.I.アヴィロフ(1882-1954)の「ノヴゴロドのオプリーチニキ」=Vostock-Photo
イワン雷帝(4世、1530~1584年)の親衛隊「オプリーチニキ」は、ロシア中世の一つのシンボルだ。大量の処刑、ツァーリの「敵」の迫害、財産没収…。この親衛隊の権限は途方もないものだった。この中世の黒衣に身を包んだ「特務機関」はどうやって生まれ、何をやっていたのか?
ツァーリのためとあらば水火をも辞せずという、仮借ない、残虐なこの連中は、国中を恐怖のどん底に陥れた。彼らの言葉は、裁判と警察よりも重かった。彼らの馬の首には、犬の生首がぶら下げられており、その服は、教会の黒衣を思わせた。身分の上下を問わず、誰にとっても、彼らが家の閾に現れたときほどの恐怖は、この世にはなかった。
イワン雷帝時代におけるボヤールの処刑。V.V.ヴラジミロフ(1880‐1931)、水彩画、リャザン国立ポジャロスチン美術館=Legion Media
一説によれば、自分の息子を殴り殺したという、矛盾に満ちたツァーリ、イワン雷帝に関する議論は、今日にいたるまで続いている。しかし、ロシア史上最悪の暗黒時代の一つが、彼自身と結びついていることは疑いない。
雷帝は、新たな階層を創った。それは、彼個人にのみ忠誠を誓う親衛隊にして秘密警察、「オプリーチニキ」だ。ツァーリに不都合な人間は片端から、彼らの手で始末された。
1564年、イワン雷帝は、最も親しかった大貴族の裏切りにあった。軍司令アンドレイ・クルプスキーだ(*彼は敵国リトアニアに亡命した――編集部注)。これを受けて雷帝は、前代未聞の挙に出た。リトアニアとの戦争の最中に首都を去ったのだ。すなわち、祈祷の後で誰にも告げずに、家族と財産、国庫金とともに(そのなかには最も崇敬されるイコンも含まれていた)、クレムリンを後にしたのである。そして彼は、モスクワから123キロの地点にあるアレクサンドロフの、守りを固めた宮殿に入った。
P.チャイコフスキーによるオペラ「オプリーチニク」のための舞台デザイン。A.M.ヴァスネツォフ (1856-1933) による劇場風景画、1911年、バフルーシン記念演劇博物館/モスクワ。=Legion Media
この歴史の分水嶺となる事件に先立って雷帝は、国の支配層全体と反目していた。実際、彼には、自身の権力と生命を危ぶむだけの根拠があったのだが、これ見よがしの首都退去は、はるかに長期にわたり、負の爪痕を歴史に残すことになった。
雷帝がいなくなると、首都ではパニックが始まった。「異教徒の敵どもが攻めてくるぞ、ツァーリはおられない、我々はおしまいだ!」。モスクワではこんな話ばかり出ていた。結局、ツァーリのもとに請願者が列をなしてやって来て、モスクワに戻り、猖獗を極める専横、不法行為を止めてくれ、と懇願するのだった。
1か月後、イワン雷帝は、退去したときと同じく華々しくクレムリンに入り、最後通牒を突き付けた。すなわち、自分は統治を続けるが、今日より、国家は二つに分かれる、と。その一つは、ツァーリの直轄領(オプリーチニナ)と、それを守るために、彼自らによって選抜された親衛隊。もう一つは、残りのすべての部分「ゼムシチナ」。つまり、大貴族の管理地区であり、彼らは勝手に生きていくがよいが、ただし内政に口を挟むのは例外的な場合に限られる、というのだ。
さて、その親衛隊であるが、イワン雷帝は、隊員を実質的に下層階級から選抜した。選ばれるための主な条件は、主だった大貴族や公の家系と、何らの係累ももたないこと。オプリーチニキたるものは、ツァーリに完全服従する「誓約」をし、その後は「規約」に従って生きていくこととなった。誓約でオプリーチニキは、「ゼムシチナとは飲食を共にせず、友誼を結ばぬ」 ことを誓った。もし両者が共にいるのが見つかった場合は、いずれも処刑された。
イワン雷帝の裁判によるオプリーチニナ。N.V.ネヴレフ (1830-1904)、油、キルギス国立造形芸術美術館/ビシュケク市=Legion Media
オプリーチニキは、首都の特定の地区で生活した。モスクワ都心のいくつかの街区(現在のスタールイ・アルバート、ニキーツカヤ通りの辺り)で、そこから雷帝は、元の住民たちを着の身着のままで追い出した。元住民には、財産を持ち出す権利はなかった。彼らは単に「妻子とともに路頭に追い出されたので、しばしば徒歩で、施しで露命を繋ぎつつ、別の場所に移らねばならなかった」。
こうしていくつもの街区から住民を追い払った雷帝は、ここに新宮殿を建設し、高い城壁で囲うように命じた。
こうして発足したツァーリ個人の親衛隊、オプリーチニキは、当初は1000人を数ええるのみだったが、後に6000人にまで膨れ上がった。その不吉なトレードマークが、犬の生首と、やはり馬に結わえ付けられた箒であり、これは彼らのシンボルだった。すなわち、ツァーリに忠誠を誓い、ロシアの「敵」は、この犬同様に切り刻み、国から「掃き出す」というわけだ。
オプリーチニキの政治的意味は、国の言論を統一し、それを支配することにあった。したがって、「ツァーリに対する罪」が、処断、処刑の現実の根拠として現れてくるのはこの頃である(法文化されるのはようやく1649年のこと)
オプリーチニキらは、「ノヴゴロド年代記」の証するところでは、この古都で大量の処刑を行い、「ゼムシチナ」を略奪し、街を荒廃させた。事の起こりは、1570年にツァーリに対し陰謀を企んでいるとして、ノヴゴロドの支配層全体が告発されたことだった。
「この密告は明らかに馬鹿げたもので、矛盾だらけだった」と、歴史家ウラジーミル・コブリンは考えるが、にもかかわらず、支配層とともに数百の住民が処刑された。住民たちは、可燃性の液体混合物を塗りたくられて火をつけられ、まだ生きているうちに川に放り込まれた。まだ死に切らない者は、オプリーチニキが船から撲って止めを刺した。
イワン雷帝の「法典」で、死刑は、最もありふれた刑罰の一つになった(例えば、初犯でも何かを盗んだとか、強盗を働いたとか、密告されたとか)。だが、しばしばオプリーチニキの一言だけで死刑になることもあった。処刑後、「裏切者」の全財産は、オプリーチニキの管理に移り、裏切者を見つけた者は、気前よく褒賞を与えられることが多かった。
ボーアル・モロゾフを訪問するイワン雷帝とオプリーチニキ・マリュータ・スクラートフ。K.V.レベデフ(1852-1916)=Legion Media
「ツァーリの意志は法であるが謎でもある」。ウラジーミル・ソローキンの中編小説『親衛隊士の日』の主人公はこう言う(この作品は、松下隆志氏による邦訳がある)。この小説は、雷帝お気に入りのオプリーチニキ、マリュータ・スクラートフを描いたものだ。
「ツァーリのご意志」による処刑が、実際のところ、その罪を証するに足るどれだけ根拠があるのかについては、誰一人考えなかったが、これも驚くに当たらない。いくつかの告発は単にでっち上げられたものだったが。
結局のところ、オプリーチニキとその部隊は、現実の外敵に対しては、なすところを知らぬ、完全な無能さをさらけ出すにいたった。ノヴゴロドの殲滅から1年後、1571年にモスクワに、クリミア・ハーンが来襲。だが、ツァーリを守るために集まったオプリーチニキは、わずか一連隊にすぎなかった。この体たらくを受けて、雷帝は、オプリーチニキを廃止し、その“エリート”たちは、容易に予想がつくことだが、処刑した。
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