一方、部分的なひげ、つまり口ひげは、時とともに男の身だしなみとなり、ある時点で、人気がピークに達した。
男性の上唇に注目するのに適した時代はいつだろうか?次の7人の歴史的人物とそのひげを通して、ロシアのひげがいかに“成長”してきたかを見てみよう。
ピョートル大帝(1世)は、自分が近代化したロシア社会で、この“ファッションアイコン”の役割について考え、成年以降のほとんどの時期、鉛筆風の薄いひげを生やしていた。
彼は、ヨーロッパ風の統治と風俗に感化され、モスクワの上流階級のひげを剃らせるべく努め、それでもなおかつ伝統を墨守してひげをたくわえる男性には、100ルーブルの税金を課した。
口ひげは、それまでの生やしっぱなしの「ひげもじゃ」に対して、スタイリッシュで「文明的」な妥協案として提案された。ピョートルはまた、軍人に対し、髪を肩より長く伸ばすのを禁止したが、短い口ひげはこれに合っていた。
これらはすべて、軍隊の見た目を改善しようという意図をもっていた。こういう新しい外見は、大貴族や重臣たちには受けが悪かったが、にもかかわらず、ピョートルは、口ひげを愛する、将来のロシア指導者のための道を切り開いたのだった。
19世紀中葉のこのツァーリは、その外見と威厳で有名だった。歴史家のコンスタンティン・デ・グルンヴァルドは、ニコライ1世を「疑いなく欧州一の美男」と呼んだ。詩人アレクサンドル・プーシキンは彼をモーセと比較しさえした。
ニコライの外見の重要なポイントは、小さく美しいハンドルバー風の口ひげだった。この口ひげは、1830~31年のポーランド蜂起を粉砕し、農奴制廃止をはねつけた独裁者の、威風堂々たる、自信満々の存在感を飾っていた。
アレクサンドル2世の貧弱な縮れ毛は、あごひげ、もしくは口ひげとみなせるかどうかよく分からない。このツァーリのセイウチ風のひげ面は、疑いなく印象的だったが、あまり手入れがされていなかったので、どこで口ひげが終わり、どこで頬ひげが始まるか不明だった。
高い額と「おじいさん」風の容貌と柔らかい茶色の目は、柔和な雰囲気を醸し出しており、それは、農奴解放を行った「解放者」のツァーリにふさわしいものだった。しかし、彼の綿毛のようなひげ面は、おそらく彼の弱さ、脆さをも露呈していた。それは、1881年の反体制テロ組織「人民の意志」よる彼の爆殺で証明されてしまった形だ。
オペラ「イーゴリ公」を作曲したアレクサンドル・ボロディンは、多方面の才能に恵まれていた。尊敬される化学者、音楽界の星にして、馬蹄形の口ひげの持ち主であった。これは、ハルク・ホーガンにも誇りを感じさせるに違いない。
しかし、ボロディンの姓は、文字通りの意味は「あごひげを生やした」だから、実際とは違う。本当は、ボロディンの口ひげは、モーベンバーの価値を認めさせるようなものだったのだが(モーベンバーでは、口ひげのみを生やす)。
作曲家はまた、1875年のサンクトペテルブルクにおける女性医学部創設にあたり、慈善事業に貢献している。
ストルイピンのあごひげと口ひげの見事なコンビネーションは、その凝った生やし方からして、モーベンバーの規則から外れるが、注意深く手入れされた彼のひげは、おそらくこのリストでは最もスタイリッシュだろう。
このロシア帝国第三代首相(初代はセルゲイ・ヴィッテ)は、革命後の弾圧と改革の舵取りで、帝国を揺るがした。ちなみに、彼の口ひげは、舵取り役にふさわしく、長いハンドルバーのような形をしていた。
ストルイピンは、ニコライ2世時代の最も重要な人物の一人で、一連の重要な土地改革を主導し、1905年革命を厳しく弾圧。その間も、ブルックリンのヒップスターのような外見を保っていた。
ソビエト文学の巨人は、スターリンのほか比べるものがない、巨大な口ひげが自慢で、見事にセイウチ風の容貌だった。そのひげの色も、巨大さと同じくらいユニークで、イギリスのジャーナリスト、エラ・ウィンターは、「古びた羊皮紙のような黄色」と描写している。
とはいえ、ゴーリキーのひげは、晩年、急激に痩せて弱々しくなっていった顔から、思い切り目立っていた。
ゴーリキーの若い頃はというと、ジェームズ・フランコ風に、口ひげを左右に分けていた。それが山高帽子と実存主義的雰囲気をともなっていたわけで、結局のところ、芸術、美術の学生は、彼以来あまり変わっていないかも。
このソ連最高指導者の有名な口ひげは、口の上に垂れ下がり、太くて美しく、セイウチ型とハンドルバー型の間で変化していた。
若い頃は、ジェームズ・ディーン風の容貌だったが、その後、ドイツの反逆の哲学者、フリードリッヒ・ニーチェが先駆けとなった分厚い口ひげを採用。そして、このスタイルのひげを厳格な父権の象徴に変えた。
スターリンは、自分の口ひげを大いに誇りに思っていたと言われる。レーニンやマルクスのようなひげもじゃの共産主義者から目立つ方便の一つと、彼は考えていたという。
またこういう外見は、彼のかっちりした軍服とレザーブーツにも合っていた。こういう容姿と装いは、レーニンとトロツキーのような文民の服装とは対照的であった。
伝えられるところによると、スターリンは彼の容姿の決め手になる、この特徴をはっきり描かせようとしていたのだが、ある画家は、彼の口ひげの見事さを捕らえそこない、銃殺されたという…。
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