レーニンの「体」へのたび重なる攻撃:廟内の遺体を標的にテロ

Reuters
 ソ連の建国者ウラジーミル・レーニンは、1924年に死去すると、特殊な防腐処理(エンバーミング)を施され、モスクワの「赤の広場」のレーニン廟にいまだに保存されている。しかし、これを埋葬し土に返すべきか否か、という問題をめぐり、またもやロシアの社会とマスコミで、議論が盛んに戦わされている。それというのも、この公開された、そしておそらく最も有名な死体は、常に多くの注目を集めてきたばかりか、何度も“攻撃”を受けてきたからだ...

自分の身の安全に無頓着だったレーニン

 レーニンは、ソ連の指導者だった時代、自身の身の安全にはあまり注意を払わず、通常は、一人のボディーガードが付き添っていただけだった。まさか、自分が不死身だと思っていたわけではあるまいが。

 最初の暗殺未遂は1918年1月のことで、乗っていた車が、君主制主義者に銃撃された。そのすぐ後にも、別の暗殺計画が摘発され、未然に防がれた。さらに、それから間もない1918年8月、レーニンは女性テロリスト、ファーニャ・カプランの銃弾であわや暗殺されるところだったが、すぐに回復している。 

 相次ぐ暗殺未遂にもかかわらず、ようやくレーニンがまともなボディーガードをつける気になったのは、次に述べる不可思議な事件の後だった。

 1919年、レーニンの車はモスクワ郊外で、6人の武装した男たちに停められた。この連中は、銀行強盗を計画していたのだが、それをうまくやるために、モスクワで車を盗もうとしたのだった。車は当時、非常に希少な輸送手段だったからだ。

 レーニンと、その妹、個人運転手、ボディーガードが車から降り、レーニンが「どうしたんだ?私はレーニンだ!」と言ったが、強盗たちはなぜか彼の言うことが分からず、自分たちの指導者だと認識しなかった。そして、彼の車、書類、お金を盗み、まんまと逃走した。

 この事件の後でレーニンは、自分を常時守るボディーガードをつけるように命じた。しかしこの事件は、最後の暗殺未遂(またはそれに類するもの)となった――少なくとも彼の生前にあっては。

 

レーニン廟の遺体への相次ぐ破壊活動

レーニン廟、1924年

 レーニンは1924年1月21日に死去し、その後すぐに「赤の広場」のレーニン廟に安置された。彼の遺体に対する最初の“攻撃”は、その10年後の1934年3月19日に起きている。

 ある男が廟に入り、レーニンの遺体を撃とうとしたが失敗し、すぐさま自殺してしまった。この男は、農民のミトロファン・ニキーチン。新生国家ソ連で跋扈する贈収賄、飢饉、汚職、腐敗に失望し、抗議のしるしとしてレーニンの遺体を傷つけてやろうと思い立ったらしい。彼の動機を説明している遺書が、彼の遺体から発見されたが、直ちにスターリンの個人文書に持ち込まれ、封印されている。

 「目を覚ませ、あなたは何をしてるんだ?あなたはどこに国を導いたか?深淵に滑り落ちていくばかりだ」。遺書にはこう記されていた。この“暗殺未遂”の詳細が明らかにされたのは、ようやく1990年代のことだった。

 さらに、それから25年と1日経った、1959年3月20日、何者かがハンマーでレーニンの棺のガラスを破壊した。1960年7月には、ムルニバエフという男が、棺の上に立って、ガラスを蹴った。そのため、ガラス片がレーニンの手と顔に突き刺さり、右の眉を傷つけた。

 ガラス片は、ピンセットと洗浄液を使用して除去する必要があったが、顔は完全に修復された。尋問に対しムルニバエフは、1949年以来、レーニンの体を傷つける計画を抱いていたと自白した。

 この事件の後、棺のガラスが強化されたので、1966年に59歳の年金受給者が大きなハンマーを投げて破壊しようとしたときも、壊れずに済んだ。

 

遺体の知られざる暗殺者たち

レーニン廟を訪れるソ連市民、1960年

 奇妙なことに、レーニンの遺体を破壊しようとした人々に関する情報はほとんどない。まるで、彼らは姿を消してしまったかのようである…。知られている限りでの最後の激しい“攻撃”は、無実の人々の命を奪いさえしたが、その暗殺者も、文字通り蒸発してしまう。

 1973年9月1日、新学年が始まる「知識の日」に、モスクワの或る学校のクラスが、レーニン廟を訪れた。当時は、厳重な反テロ対策は実施されておらず、廟に入る人は、バッグを手渡しただけで、個人ごとの身体検査は行われなかった。

 その時、一人の男が、児童のグループと一緒に歩いていったが、警備員は教師の一人だと思った。棺に近づくと男は、手をコートの中に入れ、激しい爆発が起きた!…

 そのすぐそばに、アストラハンからやって来ていた夫婦がおり、爆発で即死。廟の棺の警備員たちも脳震盪を起こし、4人の子供が重傷を負った。爆発を起こした本人は、粉々になって吹っ飛び、その場で手と頭蓋骨の一部のみが見つかった――。これが少なくとも公式の説明だ。

 後に発見された文書の一部で、このテロリストが過去に懲役10年の判決を受けていたと推測されたが、証明はできなかった。棺とレーニンの遺体は無傷だった。

 

ソ連崩壊後の「いたずら」

 この事件が、レーニンの遺体への最後の激しい“テロ”だった。

 ソ連崩壊後のロシアでは、何人かの変人がこの記念碑にいたずらをしたのみ。2010年には、ある男性が廟に入り込み、遺体を埋葬し廟を破壊せよと叫んだ。勾留され取り調べられた結果、男は強盗と暴行で指名手配中だと分かった。

 やはり同年、これよりちょっと後のことだが、ある男が廟の方にトイレットペーパーとパンフレットを投げつけ、結局、精神病院に収容された。

 2015年には何人かの政治活動家が、廟の上に聖水を注ぎかけたが、瞬く間に警備員に拘束された。「起きろ!ここから出ていけ」と活動家は叫んだ。しかし、レーニンはまだそこにいる!…

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