ロシア語の「ドナー」たち:外来語を供給してきた言語はどれ?

ロシア語
ユリア・ハキモワ
 ロシア語から外来語をすべて取り除くと、ネイティブ・スピーカーも驚愕するだろう。ロシア語は、何世紀にもわたって外来語を吸収し根付いているので、もはやそれなしでは何も語ることはできない。

 ロシア語――当時はまだ古代のそれだが――がまず借用したのは、ギリシャ語であり、10~11 世紀に浸透し始めた。これら新しい語彙は、宗教の分野(たとえば、ангел 〈angel 天使〉、демон 〈demon 悪魔〉、монах 〈monakh 修道士〉)と学問の分野、そして日常生活(たとえば、кровать 〈krovat' ベッド〉、тетрадь 〈tetrad' ノート〉、корабль 〈korabl' 船〉、 фонарь 〈fonar' 灯り〉)に適用された。

 言葉は、古スラヴ語を介して、あるいはギリシャ語から直接浸透した。

 これに続く外来語の「層」は、スカンジナビアだ。その出現は、9 世紀から発展した、古代ロシアとヴァイキングとの交易、文化的、社会的交流によるものだった。研究者らは、スカンジナビア由来の外来語を 200 強としている。そのなかには、人、社会関係、職業を表すものや固有名も含まれている。

 これらの言葉のなかには、時とともに跡形もなく消滅したものもあれば、生き残ったものもある。たとえば、варяг(ヴァリャーグ)、викинг(ヴァイキング)、витязь(vityaz' 勇士)、ябеда(yabeda 告訴、裁判官)、кнут(knut 鞭)、кофта(kofta 上着)、крюк(kryuk フック、鉤)、 хлеб(khleb パン)、князь(knyaz' イーゴリ公などの「公」)、人名のОльга(オリガ)、Игорь(イーゴリ)など。

 また、9 世紀以降、他の近隣諸国のおかげで、ロシア語は、トルコ語、アラビア語、ペルシャ語、中国語などのオリエンタリズムで豊かになった。モンゴル帝国の侵攻・征服以前には、たとえば、次のような新語がロシア語に入っていた。Боярин(Boyarin 大貴族)、шатёр(shatyor テント、尖塔)、богатырь(bogatyr' 勇士)、ватага(vataga 縦隊)、жемчуг(zhemchug 真珠)。

 これは近隣の諸部族との交易や軍事上の関係によるものだ。とくに遊牧民ペチェネグの影響は大きかった。彼らは、ヴァリャーグからギリシャへの(スカンジナビアからビザンツ 〈東ローマ帝国〉 への)名高い交易路を支配していた。またやはり遊牧民であるポロヴェツに由来するものも多い。

 13 世紀半ばから 15 世紀末まで、ロシア各地の公国は、モンゴル帝国に、その後はジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)に服属した。この時期、ロシア語は、行政関連の新たな語彙が著しく増えた。たとえば、ямщик(yamshchik 御者)、ярлык(yarlyk ラベル)、деньга(den'ga お金)、тюрьма(tyur'ma 監獄)、казна(kazna 国庫)。

 軍事関連では、казак(kazak コサック)、кинжал(kinzhal 短剣)、атаман(ataman アタマン)、сабля(sablya サーベル)その他。

 日常的な語彙では、хозяин(khozyain主人)、 сарафан(sarafanサラファン)、 башмак(bashmak靴)、 стакан(stakanコップ)、 алмаз(almazダイヤモンド)、 туман(tuman霧)、 базар(bazarバザール)など。

 「タタールのくびき」から脱するとロシアは、西欧と活発に交流し始め、外国の専門家が 12 世紀以降、来訪するようになり、15~16 世紀にはその数が著しく増えた。

 ヨーロッパとの交流の発展において特筆すべき役割を果たしたのは、「全ルーシのツァーリ」として初めて戴冠したイワン雷帝(在位 1533~1584 年)だ。彼はオランダとイギリスとの定期的な貿易と外交関係を確立し、エリザベス 1 世に求婚さえしている。また彼は、医師、建築家、鍛冶師、軍人をロシアに招いた。

 雷帝の治世には、次のような言葉がロシア語に登場した。Адмирал(Admiral 提督)、солдат(soldat 兵士)(オランダ語またはドイツ語から)、капитан(kapitan 船長)(イタリア語から)、その他多数。

 17 世紀には、西欧諸国の語彙が、ポーランド語を通じてロシア語にしばしば入ってきた。この「仲介」のおかげで、たとえば、以下の語彙が流入し定着した。

 フランス語由来の кастрюля(kastryulya 鍋)、дама(dama 婦人)、курьер(kur'yer 急使)など。

 ドイツ語由来の бунт (bunt 暴動、反乱)、вахта(vakhta 当直)、кухня(kukhnya 台所、料理)など。  

 イタリア語由来の бричка(brichka 軽四輪馬車)、карета(kareta 箱馬車)など。

 これと並行して、ポーランド語からも盛んに借用された。たとえば、опека(opeka 後見、保護)、 писарь(pisar' 書記)。また、2人称代名詞の敬称「Вы」(あなた)が使われる習慣も、ポーランド語からだ。

 ピョートル 1 世(大帝、在位 1682~1725 年)の時代には、外来語の流入は、彼の大改革の規模に正比例していた。言葉は、新たな現実とともにロシア語に現れ、新しい用語が新現象を表した。

 ラテン語からは президент(prezident 大統領、総裁)、комиссия(komissiya 委員会)、イタリア語からは газета (gazeta 新聞)など。

 研究者らの試算によると、ピョートル大帝の時代には、何よりも行政関連の用語が借用されたが、日常の現象を表す言葉や用語もある。галстук (ネクタイ galstuk)、опера(opera オペラ)、симфония(simfoniya 交響曲)など。この時代、最も盛んに外来語を供給したのは、ドイツ語、オランダ語、フランス語、および英語だった。

 このようにロシア語が外来語で急速に拡充されていったにもかかわらず、借用の仕方が無秩序だったとは言えない。

 「ピョートル自身、外交官の一人に、借用語を使い過ぎないように戒めた。『借用語により事の本質を理解することはできぬ』。つまり、彼は、言語表現のそれぞれの目的を考慮していた」。サンクトペテルブルク国立大学ロシア語講座のエレーナ・ゲネラロワ准教授はこう述べる。

 ロシアの19世紀初頭は、「フランスかぶれ」の大流行が特徴だった。フランス語を話したのは、国民の特定の階層である貴族だけだったが、当時、国民文化を形成したのは彼らだった。そのため、フランス語はロシア語に強く影響した。 

 この時代の特徴は、ちなみに、詩人アレクサンドル・プーシキンも、その韻文小説『エフゲニー・オネーギン』で指摘している。作者は、ヒロインのタチアナを次のように読者に紹介する。

  「彼女はロシア語をよく知らなかった。

  ロシア語の雑誌は読まなかった。

  母国語では、

  表現するのが難しかった。

  だからフランス語で書いた」

 外国語の借用への態度も、「古い文体」と「新しい文体」を支持する両派の間で意見が異なった。そして、19 世紀初めに、両者の間で激しい論争が起きた。

 「当時、フランス語は、最も教養があり、最も啓蒙された国民の言語と考えられていた。『新文体』の支持者のフランス語志向は、言語をヨーロッパ化する構想として、ピョートル大帝の改革の継続とみなすことができる」。ゲネラロワ准教授は語る。

 この論争を和解させる役割を果たしたのがプーシキンであり、その作品は、現代ロシア文学の基礎を築いた。

 「プーシキンの後、ロシア語の発展の道をめぐる論争は終わった。彼の作品では、すべてが所を得ている。プーシキンには、俗語も借用語もスラヴ的表現、語彙も見られ、これらすべてが芸術的表現のために役立っている。プーシキン作品は、理想的なバランス感覚だ。そして、彼の言語にはすべてが然るべく収まる場所があることが分かった」。ゲネラロワ准教授はこう説明する。

 19 世紀と20 世紀の狭間には、ロシア語に外来の政治用語が流入した。「プロレタリア」、「社会主義」などだ。また、1920年代には、政治関連の語彙は、ソビエト製語彙の波によって大幅に補われた。これは、新しい現実を記述するための、若きソビエト・ロシアによる「独自の発明」だった。そうした語彙としては、рабфак(ラブファク 〈中等教育を受けていない労働者のための学校〉)、совхоз(ソフホーズ)、нарком(ナルコム 〈人民委員〉)などがある。 

 ロシア語への外来語流入の次の波は、1970年代に生まれた。第一に、それは英語起源の俗語で、若者の日常会話に広がった。шузы(シューズイ 〈靴、シューズ〉)、олды (オールズ 〈両親〉)、флэт (フラット 〈アパート〉)など。第二に、急速に人気を博しつつあったSF小説の分野からの語彙だ。たとえば、бластер (ブラスター、光線銃)、киборг (サイボーグ)など。

 1990 年代には、大規模な社会的・経済的変化が、ロシアで起きた。政治体制の変革、市場経済への移行、銀行システムの発展、外国人との接触の爆発的な増加、検閲の廃止、欧米の文化の大規模な流入…。そして、以前はアクセスできなかった、ありとあらゆる外国のモノ、現象へ関心が高まったが、それがこの時期の特徴だ。 

 こうしてロシア語は、再び英語からの借用語の大流入を経験した。そのいくつかは新しい現実とともにやって来た。Ваучер(vaucher バウチャー)、грант(grant 助成金)、блокбастер(blokbaster ブロックバスター)、риелтор(riyeltor 不動産業者)、пиар(piar PR)、маркетинг(marketing マーケティング)、импичмент(impichment 弾劾)等々。

 従来の言葉を置き換えたものもある。клининг(klining クリーニング)、дансинг(dansing ダンス)、шоу(shou ショー)、трек(trek トラック)など。

 そして、これらのほとんどが会話に定着した。

 さらに、若者のスラングには盛んに外来語がとり入れられている。пипл(ピープル)、 бой(ボーイ)、 вайб(雰囲気、オーラ ← 英語の vibe 〈バイブレーション〉 より)、 дринк(ドリンク)、 лук(外見 ← 英語のlookより)、 криповый(不気味な ← 英語のcreepyより)などだ。

 専門用語、とくにコンピュータ用語も多い。日常的に使われる имейл(電子メール)から копипаст(コピー・アンド・ペースト)や скроллинг(スクロール)まで。

 メディアのデジタル化、ソーシャル・ネットワーク、フォーラム、ブログの出現により、ロシア語のネイティブ・スピーカーは、外来語が不要な場合、あるいはかえって冗長になる場合でさえも、ますます多用するようになっている。過去 20 年間のこの傾向は、政府機関がこのプロセスを規制しようとする試みにつながっているが、こうした規制の動きは、十分予測可能で、当然の成り行きではある。

 「外来語には常に、細心の注意が向けられ、国家規制の対象になりかねなかった。国家規制では、イデオロギー的な側面が明らかだ。にもかかわらず、言語、とくにロシア語のような豊かで長い歴史をもつ言語から、外来語、借用語を取り除くことは不可能だ。借用語は、ロシア語が存在してきた全期間に現れており、必要なギャップを埋めて残るものもあれば、消えていくものもある。 ロシア語自体がすべてを消化吸収し、それぞれに必要な場所を見出す。そもそも借用語は、あらゆる言語の発達においてまったく自然なプロセスであり、言語間の接触と切り離すことはできない」。ゲネラロワ准教授はこう結んだ。 

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