ロシア帝国の子供たちはいかに働いたか:農村と都市での労働の実態は?

トレチャコフ美術館
 帝政時代、ロシアの農家では、子供たちは、幼い頃から責任感としっかりした労働観を叩きこまれた。これは教育の主な目的であり、サバイバルするための鍵でもあった。しかし、18~19世紀にかけて、児童の労働は、ロシアの産業社会の汚点となっていく。

 ロシア語では、子供を意味する「ребёнок」(rebyonok)の語源は、仕事「работа」(rabota)と奴隷「раб」(rab)だ。このことは、子供たちが家事をする際に、両親によって有無を言わさず従事させられていたことを示している。

 残念ながら、ロシア史のある時代には、「奴隷」はより字義通りの意味をもっていた。18~19世紀がそうで、子供たちは、ときに恐るべき労働条件で工場や鉱山で働いていた。

 ロシアの農村社会では、何世紀にもわたって、7歳という年齢が一つの基準になっていた。生まれてから7歳までは、子供たちはほぼ文字通りの子供として扱われていた。簡単な家事を割り当てられるだけで、少しずつ、日々の暮らしの中で両親を助けるように教えられた。しかし、子供が7歳になると、彼らは「レビョーノク」になる。今のところ一人前ではないが、ある程度の責任を負っている存在だ。

 子供は両親と祖父母に従うべきである――ここに疑問の余地はなかった。そこで、7歳の誕生日に、男の子は最初のズボンとシャツを、女の子は最初の長上着をもらい、農民の子としてフルタイムで仕事を始める。 

農村の少年の仕事

『ザハルカ』、アレクセイ・ヴェネツィアーノフ作

 近年では、母親が息子に食器を洗ったり掃除機をかけたりするように言うのはありふれたことだが、昔のロシアでは考えられない。すべての家事は、厳密に性別によって決まっていたからだ。

 男の子がまず身につけたことの一つは、「ラーポチ」(白樺の靱皮〈じんぴ〉から作られた伝統的なロシアの履物)を作り、小枝で籠を編むことだった。これはそんなに難しくはなかったが、綿密な手作業であり、勤勉さと粘り強さが求められた。これは、ロシアの農民の子供たちに後年必ず必要になる二つの資質だ。

ラーポチを作っている農民たち

 また、「ラーポチ」はすぐにすり減るので、ロシアの農家の男性は、大人も少年も、毎日の仕事のかなりの部分を、家族のために新しい「ラーポチ」を作ることに費やした。

 少年たちはまた、自分と弟妹のために簡単な木のおもちゃを作ることを学んだ。父親といっしょに釣りと狩りの基本的な技もマスターした。

 牛の世話をすること――毛をくしけずり洗ってやること、そして乳を搾ること――は、男子と女子双方にとって雑用となっていた。

 ところで、農家の主な労働力の一つは、常に馬だった。夜間に馬を放牧するのは少年たちの受け持ちだった。そのため、彼らは幼いころから、馬をつなぐこと、馬具をつけること、馬に乗ること、馬車に座ったり立ったりしながら御すること、水場に連れて行くことなどを教えられていた。一部の少年は、馬具の作り方をマスターすることもあった。これも、農村では不可欠な技能だ。

 農作業は、性別によっても異なった。男は畑で働いたが、女は自宅の菜園の世話をした(ただし、収穫期は別で、このときは収穫に行ける者全員が畑に出た)。

『牛飼い』、ウラジーミル・マコフスキー作

 だから男子は、たとえ実際に耕すには幼すぎるとしても、早い段階から父親の耕作を手伝い始めた。父親は、馬鍬(まぐわ)に男の子を乗せて重くして、深く地面に食い込むようにすることもあった。12歳頃からは、少年は、畑の小さな区画を割り当てられ、自分で世話することになる。思春期を迎える頃には、そういう少年はすでに経験を積んだ立派な農夫になれた。

 少年たちは、思春期になると、いくつかの有益な技能を学べた。つまり、牛飼い、農夫、木工職人など、農村に適した職を選べた。

 ただし、女の子は事情が違い、ふだんは村にいた。19世紀後半まで、女性はこの種の仕事や工芸に携わることが禁じられていたからだ。

農村の少女の仕事

 ロシアでは伝統的に、生まれた女の子の臍の緒は、紡錘で切断されていた。この儀式は、女性がその人生の最初の瞬間から糸紡ぎの技と結びつくことを意味していた。農家に生まれた女の子なら、糸巻き棒で羊毛を紡ぐことは、やがてその主な仕事の一つになるだろう。5歳までに女子は、たいてい糸紡ぎの経験をかなり積んでおり、そのため、同年齢の男子よりも早くから、家族の役に立っていた。

『針子』、ニコライ・ドゥボフスコイ

 女の子たちはまた、家庭を中心として、次のような雑用を課せられていた。床を掃除する、腰かけを洗ってきれいにする、敷物(カーペット)、ベッドシーツ、枕をまず振ってから洗濯する。 

 少女たちはさらに、暖炉の燃えがらを浸して作った灰汁で、家の中で衣服を洗い、川の水ですすぐことを学んだ。こうした雑用のおかげで、農村の女の子は、今日の同年齢の女子よりもはるかに身体的に丈夫になった。

 幼い子供たちの世話も、女の子たちの仕事だった。彼女たちは、幼児のために、ぼろきれと小枝や藤蔓で人形を作り、おとぎ話や子守唄を聞かせて寝かしつけることを覚えた。また、赤ちゃんを包み、くり抜いた動物の角(昔の哺乳瓶だ)を使って赤ちゃんに食事させ、一枚の布と噛んだパンでおしゃぶりを作ることを知っていた。多くの場合、11~12歳になると女の子は、同じ村の他の農家で赤ちゃんの世話係になった。

工場での悲惨な児童労働 

 18世紀半ばの産業革命の到来とともに、児童労働が当たり前になってしまった。児童労働を規制する法律がなかったので、子供たち――そのほとんどがティーンエイジャー――は、ひどく搾取された。残念ながら、当時の世界の多くの国では、子供はしばしば単なる奴隷として扱われ、ロシアも例外ではなかった。

『トロイカ(弟子は水を運んでいる)』、ヴァシリー・ペロフ作

 革命前のロシアでは、児童の人身売買業者は、多くの子供を養えない貧農から買い取っていた。男の子でも女の子でも、そういう不道徳な農民は、せいぜい2~3ルーブルで子供を手放した。19世紀では、これは、たとえば帽子の値段、中程度のホテルの宿泊料だ。両親は、子供に服と路銀をやり、別れを告げた――しばしば永遠に。

 首都サンクトペテルブルクまたはモスクワに到着すると、子供たちは、労働力として商人や工場の所有者に売られた。その代金は、人身売買業者が農村の両親に払った額の2~3倍だった。女の子は、最も恵まれたケースでは、商店に奉公させられたり、料理人や召使として「雇用」されたりしたが、男の子の場合は、もっと困難な目に遭った。しばしば工場の所有者に「雇用」されたからだ。政府の査察はあり、理論的には児童労働の搾取を止められただろうが、実際に規制する法律はなかった。

 たとえば、シベリアのトムスクでは、クフテリン家のマッチ工場で、子供たちが木箱にマッチを詰めていたが、マッチが1本も床に落ちないようにしなければならなかった。マッチが落ちるたびに罰金が科せられ、子供への支払いから差っ引かれた。おまけに、子供たちは12~14時間働き、昼休みと午後のお茶の休憩が一回あるだけだった。 

 概して、児童労働を利用していたロシアの実業家らは、その福祉、健康、教育などをあまり気にかけなかった。子供が期待通り働かなかったら、あっさり解雇された。そして、男の子は物乞いや軽犯罪に陥り、女の子は、最悪の場合、娼婦になった。

ヴィソツキー茶工場で働いた子供

 1880年代初めになると、ロシア政府はこうした状況を憂慮し、1882年に、法律「各種工場、工房で働く未成年者に関する法令」が、皇帝の諮問機関「国家評議会」で承認された。12歳未満の児童の労働を禁止し、12~15歳の子供は、労働時間を1日8時間(休憩なしで連続4時間以下)に制限し、夜勤(午後9時~午前5時)と日曜日の労働を禁止した。健康に有害な職場環境での児童労働も禁じられた。

 しかし法律は、すぐに完全に施行されたわけではなく、すべての業界に適用されたわけでもない。ビジネスにおける児童労働のロビーは依然として強力だった。 

 工場の所有者は、合法的に見せかけるために、青少年の労働者の年齢を偽った。あるいは、単に児童労働の事実を隠した。法律が可決されてから20年後の1903年、サンクトペテルブルクの工場検査官は次のように述べている。

 「多くのレンガ工場は、15歳未満の労働者を雇用しており、これらの未成年者は、成人と同じく、つまり最大1日11.5時間働いている」

 20世紀の最初の10年間は、統計によれば、あらゆる法律にもかかわらず、児童労働が確実に増えていた。首都や大都市では査察が行われたが、ロシアの地方では、子供たちは依然として無法に搾取された。 

 ロシア革命後の1918年にようやく、ボリシェヴィキ政権が、16歳未満のあらゆる労働を完全に禁止する最初の労働法を採択している。

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