ソヴィエト連邦はいかにして食卓に平等をもたらしたか

ソ連の食堂、1986年

ソ連の食堂、1986年

ボリス・クリピニツェル撮影/TASS
 ソ連時代、料理人たちは伝統的な民族料理を組み合わせ、材料を安くし、その過程で現在“ソヴィエト料理”として知られているものを作り上げた。

 今日ロシアの伝統料理と考えられているものの多くが、実はソヴィエト時代に起源を持つ。マヨネーズに浸したサラダ、パン粉いっぱいのカツレツ、ラスクで作った“ポテト”ケーキ。これらすべてソ連時代に作り出されたものだ。新時代が旧式の生活に変革を迫った。そしてもちろん数世紀の歴史を持つロシア料理もずいぶんと様変わりした。

厨房奴隷をなくそう 

 1917年の革命まで、ロシアの料理は社会的にも地理的にも分かれていた。ロシア帝国西部の伝統的な農民料理はシチー(キャベツのスープ)、雑穀粥、ライ麦パンだ。ロシア北部の住民はウハー(魚のスープ)、焼きカブ、カリトキ・パイを作った。モスクワ人はトラクティル(軽食店の一種)で出されるズビテニ(蜂蜜湯)を楽しんだが、一方当時ロシアの首都だったサンクトペテルブルグにはヨーロッパ式の優雅なカフェやパン屋が立ち並んでいた。そしてもちろん、中産階級の家庭料理もあった。

 ソヴィエト連邦はロシア料理を画一化した。高度の社会的平等という、ソヴィエトの指導者たちが普及させていた思想が料理の要となった。ソヴィエト料理は社会主義の国々から集めた民族料理を組み合わせたものだった。その多くは安い材料を使って単純化された。シャシリク(肉のケバブの一種)、レチョ(野菜のラグー)、ハルチョ(ジョージアの伝統的なスープ)といったソ連南部の郷土料理が特に人気だった。

バイカル・アムール鉄道の建設業者

 プロレタリアートが主要な社会階級となったため、食事は労働階級の需要に合わせて考案された。さらに女性の役割は単なる主婦ではなく労働者と見なされた。“厨房奴隷をなくそう”が新国家の人気の標語となった。

 手始めに大幅な変革が成されたのは各市民の食事だった。労働者は家で昼食をとる必要がなかった。昼食は工場か事務所の食堂でとればよかった。食堂では全料理が国家基準(GOST)に従って作られていた。スープの中の肉の量からフォークの化学組成まですべてが規定されていた。例えばペルミ市とリャザン市のボルシチが互いによく似ているのはこのためだ。

モスクワの「プラハ」レストランの内装

 つづいて“セットランチ”という用語が現れた。これはスープ、主菜、コンポートの3品から成る食事を指す語だ。とても安く、労働者は家庭での食事よりこちらを好んだ。

 もちろん、“エリート”、芸能人、党のノーメンクラトゥーラのための外食サービスもあり、これには食堂や軽食店だけでなく不足品を提供する店も含まれた。レストランはと言えば、一般のソヴィエト市民は記念日や結婚式など特別な機会に訪れるのがふつうだった。

木曜日は魚の日 

 ソ連では食料が不足しており、特に肉は深刻だった。そのため1932年に国内の食料調達を司っていたアナスタス・ミコヤンは木曜日を“魚の日”として制度化した。木曜日には食堂では魚のスープやタラのフライ、魚のカツレツしか出されなかった。なぜ木曜日か。正教信徒にとって水曜日と金曜日は断食の日で肉を食べなかった。一説によれば、ボリシェヴィキはこの宗教的伝統を乱すために“魚の日”を木曜日に定めたと言われる。

ムルマンスク市の魚加工工場、1971年

 1930年代の終わりから漁業が急速に発展し、魚の缶詰(マグロ、カラフトマス、イワシ)がソヴィエト市民の食卓に上った。

ソヴィエトのオリヴィエ・サラダが伝統的なサラダよりも人気だった理由

 ソヴィエト連邦は調理を効率的かつ安価にすることで有名だった。世界中でロシアン・サラダとして知られるオリヴィエ・サラダを例に取ろう。これはそもそも1860年代に、モスクワ中心にレストランを持っていたフランス人シェフのルシアン・オリヴィエによって考案された。このサラダはレストランの名物料理だった。当時の材料はすり潰したキャビア、茹でたザリガニ、仔牛の舌、ライチョウ、アンチョビ大豆、新鮮なレタス、ピクルス、ケーパー、ゆで卵、新鮮なキュウリだった。ドレッシングを作るにはフランスのビネガー、新鮮な卵2つ、オリーブオイルが必要だった。

 ロシアン・サラダはフランス人シェフの創作品とは何の共通点もない。だが現在のロシアや旧ソヴィエトの国々の出身者にオリヴィエ・サラダの材料を尋ねれば、彼らは全員こう答えるだろう。茹でたソーセージ、ポテト、グリーンピースの缶詰、卵、キュウリ、たくさんのマヨネーズ。ソヴィエト時代には、ザリガニやライチョウなどの珍味はもちろん、おいしいソーセージや豆の缶詰も手に入りづらかった。今日では本来のオリヴィエ・サラダのレシピを復刻しようとするレストランもある。しかし、一般的な食材を使ったソヴィエト・サラダのほうが、帝政ロシア期の祖先よりもずっと人気がある。 

 ソ連生まれのもう一つの有名な料理が、“毛皮コートを着たニシン”だ。刻んだニシンの身を茹でたジャガイモ、ニンジン、ビート、おろした玉子の層でくるみ、マヨネーズで包んだものだ。サラダは革命の精神に基づいて1918年に考案された。「排他的民族主義と腐敗には排斥と破門を」というロシア語文の各単語の頭文字をつなぐとシューバ(毛皮のコート)になる。この料理は今でもロシアの各家庭の祝祭日の食卓を飾っている。

マヨへの情熱

 今日ではマヨネーズは健康的とは考えられていない。しかし栄養価の高い食品が不足していたソヴィエト初期には、マヨネーズはカロリーと脂質の貴重な源だった。さらに、マヨネーズをかければどんな食品もおいしくなった(マヨネーズが好きならばの話だが)。マヨネーズがたっぷりかかっていれば、どんなものでも食べられると人々は言ったものだ。ソヴィエト市民はこの白いソースを絶えず追い求めた。というのも他に手に入るソースがほとんどなかったのだ。1936年に現れたソヴィエト・マヨネーズは、フランスのものと少ししか似ていなかった。材料は精製油と新鮮な卵の黄身、マスタード、砂糖、酢、塩、香辛料だった。添加物も安定剤もなし。マヨネーズは品薄で、多くのソヴィエト市民はそれを休日にしか食べられなかった。 

ソヴィエト料理へのノスタルジー

「ワレニチナヤ」喫茶店

 ソヴィエト連邦は1991年に崩壊したが、ロシア人の味覚になお影響を残している。多くのレストランが伝統的ないし現在のロシア料理を提供しているにもかかわらず、ソヴィエトの食堂は今でもノスタルジーの発作を引き起こす。ソヴィエト式のレストランはロシア人だけでなく観光客にも大変人気だ。現在でもオリヴィエ・サラダのない新年など想像できないという人々が多い。

 皆さんはソヴィエトのミルクたっぷりのアイスクリームの味を覚えているだろうか。なぜこのおいしいデザートが最高だったのか、こちらの話を読めばその理由が分かる。

 ソ連のアイスクリームの味は覚えていますか?最も洗練されたミルキーなアイスをこの記事で思いだします。

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