メニュー1917:ボリシェヴィキ、レーニン、そしてニコライ2世は何を食べていたか

ニコライ2世と家族、1916年

ニコライ2世と家族、1916年

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 いつだって、お隣のお皿を覗くのは面白いだよね。ロシア帝国最後のツァーリやプロレタリア革命の指導者のお皿だったら、なおさらだろう。レーニンや彼の支持者たちが100年前に何を食べていたのか、流刑先でニコライ2世と彼の家族がペリメニの代わりに何を食べていたのか見てみよう。

 1917年の革命は裕福な人と貧しい人との間の垣根を取り払っただけでなく、料理の伝統までも拭い去ってしまった。それまで貴族や商人の家庭で作られていた料理はずいぶんと失われてしまった。国内の荒廃で贅沢な暮らしは難しくなり、革命の指導者たちでさえ、おいしいご馳走を楽しむことができなかった。例えば、革命委員会のメンバーはしばしば、旧スモーリヌイ女学校の建物に設置された食堂で食事をとっていた。ただ、ここのメニューは(どこでもそうだったが)とてもささやかなもので、基本的にレンズ豆やキビの料理で占められていた。自分のパンを持ってレストランに行く、というほどに悲惨な状況だったのだ。

レンズ豆のスープ

 ボリシェヴィキの夕食のメニューは、ジャガイモのカツレツと囚人カツレツ(辛子付きの136gの牛肉)だけということもよくあった。まさにこんな料理を再現したのが、邸宅地ピロゴヴォにあるレストラン“ドミノ”のシェフで、ロシア料理史の研究家でもあるマクシム・スィルニコフさん。12月の半ばから、彼のレストランでは1917年のメニューを味わうことができる。

レストラン“ドミノ”

 「ボリシェヴィキの大半は食にうるさくなかった。彼らの多くは社会的底辺の出身だったし、秘密活動、流刑、投獄、亡命の時代にグルメが生まれる余地はなかった。とはいえ、党の指導者の一部は特権階級の出身だった。ゲオルギー・チチェーリン(外交官、ロシア・ソヴィエト連邦社会主義共和国とソビエト連邦の外務人民委員)、アレクサンドラ・コロンタイ(ソ連特命全権大使)のような人々は、良い食事の意義を知っていた。」雑誌『イストリク』(“歴史家”)の編集長ヴラジーミル・ルダコフさんは、ロシア・ビヨンドにこう話した。

 

マクシム・スィルニコフによる、囚人カツレツのレシピ 

カツレツ1枚分の材料

囚人カツレツ

  • 牛肉 136 g
  • 食パン 一枚
  • 生クリーム 50 g
  • 小さめの玉ねぎ 半分 
  • 塩、コショウ、パン粉、衣をさっと焼くための澄ましバター

 

作り方

 食パンを生クリームに漬け、肉や玉ねぎと一緒に肉挽器で挽き、塩とコショウを加える。こねてカツレツの形を作り、パン粉をまぶしてフライパンで両側をさっと焼く。オーブンで焼いて完成。

 

レーニンは何を食べていたか

 子供の頃、ヴラジーミル・ウリヤーノフ(レーニンの本名)はロシア・ドイツ風の料理で養われていた。彼の母親はヴォルガ・ドイツ人のプロテスタント集団の中に生まれた。彼女が作る料理は、「ミルクスープ、植物スープ、穀物スープだったが、まれにロシアの酸味のあるシチーも出た。シチーは『重たい』料理と考えられていた。」ロシア料理史の研究家のヴィリヤム・ポフリョプキンさんは著書『レーニンは何を食べていたか』の中でそう記している。ここから分かることは、肉料理は滅多にせず、せいぜい牛肉を煮るくらいだったということだ。しばしば目玉焼きを食べていた。「毎週日曜日は、朝食と夕食にゆで卵と半熟卵を食べるのが普通だった。」結果として、ヴラジーミル・レーニンの食事が規則的でボリューム満点ということは滅多になかった。

 「成人後のレーニンの食事は至って平凡だった。」ヴラジーミル・ルダコフさんはそう言う。しばしば冷たい料理だけで、そのため27~28歳までに胃に問題を抱えた。奇妙に思えるかもしれないが、イリイチが“飽食した”唯一の時期はシュシェンスコエ村に流刑となった時だ。そこで彼は健康的な村の食事をとり、狩りや釣りに出かけた。「まあ、あなた太りましたね!」彼の姑(ナデジダ・クルプスカヤの母)は彼らを訪ねたときにこう驚嘆したそうだ。その後、亡命中や権力の座についてからも、レーニンはよくこの時期を回想した。ソビエト政府のトップになった後でさえ、こんなに立派な食事をとることはなかった。常に働いていて、まともな食事の代わりに軽食をとるばかりだった。

 またルダコフさんの話では、レーニンの妻ナデジダ・クルプスカヤは「料理が下手で、彼女の回想から判断して、40歳を遙かに過ぎてからやっと料理本でブリヌイの作り方を覚えたようだ。ですので、亡命中彼らは比較的安い食堂で食べていた。クレムリンに入ってからは、人民委員会議の食堂を利用していた。」

 

皇帝一家の夕飯

 1917年、おいしい料理でいっぱいの皇帝一家の宴に終止符が打たれた。ロマノフ家の人々が最後の78日を過ごしたエカチェリンブルクのイパーチエフ館では、料理人イワン・ハリトーノフが彼らに食事を作っていた。皇帝一家にはあまり肉が届かなかったので、ハリトーノフは例えば馴染みのペリメニやヴァレニキの代わりにビーツのサラダを、ミカンのゼリーの代わりにコンポートを、ラスステガイの代わりにマカロニのピローグを作っていた。

 マクシム・スィルニコフさんは、レストラン“ドミノ”で提供するため、流刑先での皇帝一家のメニューにあった料理のレシピを再現した。スィルニコフさんの手になる皇帝の夕食の内容は、キュウリの新鮮なスープ・ピューレ、ビーツのサラダ、マカロニのピローグ、お米のカツレツだ。

 

キュウリのスープ・ピューレ

キュウリのスープ・ピューレ

材料

  • 新鮮なキュウリ 500 g
  • ミネラルウォーター 1カップ
  • ニンニク、塩、コショウ、イノンド、ネギ

作り方

 キュウリとニンニクは目の細かいグレーターでおろし、ミネラルウォーターを加え、みじん切りしたネギ、イノンド、塩、コショウを加える。

 

マカロニのピローグ 

材料

  • マカロニ 100 g
  • 卵 1個
  • 生クリーム
  • 玉ねぎ 1個
  • 澄ましバター
  • 塩、コショウ

 

作り方

 塩を入れた水でマカロニを茹でる。フライパンに広げ、卵と生クリームを混ぜたものを注ぐ。炒めた玉ねぎ(薄切りにしたもの)を上から加え、コショウをかける。完全に煮詰まるまでオーブンで焼く。

 

お米のカツレツ 

お米のカツレツ

材料

  • 米 1カップ
  • 水 2カップ 
  • 澄ましバター 大さじ2
  • 卵 1個
  • 細かく砕いた小麦の乾パン 大さじ2

 

作り方

 2カップの水で米を炊く。冷ます。卵、塩、大さじ1杯の澄ましバターを加え、よく混ぜる。カツレツの形を作り、乾パンをまぶす。残りのバターを敷き、両側から焼く。

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