―ロシア料理が世界では、フランス、イタリア、日本などの料理ほど人気がないのは、なぜだと思いますか?
それは、ロシア料理をめぐってたくさんの先入観があるからです。それらは、ソ連時代に生まれたもので、今でも、そういうステレオタイプは残っていますね。ロシア料理はとても“重い”とか脂っこいとか。私の課題は、世界中を回って、実はそうではないと証明することです。
―そういうロシア料理への観念は今変わりつつありますか?
確かに変わっています。 もちろん、一世代ですべてを変えるには十分ではありませんが。私たちは今、ロシアで何かを変え、ロシアのイメージを変え得る重要な時を迎えています。食とは、人々を結びつけるものであり、いつでも政治の外にあります。
―あなたは多くのインタビューで、ロシア各地の食品、料理について語っています。そのなかで特筆すべきものは?
黒パン、キャベツの漬物(ザワークラウト)、キュウリ、ナナカマド(木の実の一種)、野鳥…。ロシア料理は、季節の旬をとても大切にします。秋には狩りをしますし、異教時代から残っている「マースレニツァ」(「バター週間」の意味で、冬送りの祭り)のようなお祭りもあります。今では、ロシアの大半はキリスト教化されており、これは私たちの食べ物に大きな影響を与えています。正教には、4つの精進の期間があり、人々はこれを守り始めています。つまり、私たちはルーツに戻りつつあるのです。
しかし、何もロシアが独自の道を歩んでいるわけではなく、これは世界的な傾向です。かつては、いわゆる国際的な料理がもてはやされました。「グリークサラダ」、「シーザーサラダ」、「オリヴィエ・サラダ」 ――これらは、いずれもロシアのサラダだと思われていますが、しかし、ロシア料理のルーツを見ると、サラダなんてなかったのです。ロシアで最も人気のサラダは、昔は、ダイコンを鉋で削るみたいに切り、それにハチミツをかけたものでした。これは17世紀に現れています。
―ロシアでグルメ旅行が発展する見通しはどうでしょう?
ロシアでは、言うまでもなく、人々は常に首都を目指しています。誰もがモスクワにやって来て、自分の能力を発揮したいと願い、それぞれの地方を発展させようとは思っていないのですが、これは、私には奇妙なことに感じられますね。各地域には、それぞれ独自のコードと顔があるべきです。そして、それを実現する最も簡単な方法は、食の表現です。
私は旅行しながら、芸術と食べ物からインスピレーションを得ます。ある都市に来ると、私は美術館と、一番人気があってしかも面白いレストランに行きます。その際には、トレンドや味に注意を払います。
食は、雰囲気を伝えるものであり、レストランは、その雰囲気を味わえる場所です。料理を通じて、シェフはお客とコミュニケーションするのです。それでお客は、食事をしながら、今この街で、この国で何が起きているのかが分かるわけです。
―あなたは日本料理のレストランで研修した経験をお持ちですね?
ええ、私は「すきやばし次郎」で多少研修したことがあります。小野二郎さん(ミシュラン史上最高齢の三ツ星シェフで寿司職人)の息子、小野隆士さんの六本木店ででした。
日本料理は、極めて伝統の規範を重んじ、また閉鎖的な世界です。寿司屋で10年修行して、なおかつ魚が然るべくさばけないということがあるのです。できるのは、米を炊くことだけなんて。いや、それすらさせてもらえないことがあるのですから。
もちろん、ロシアでは、これよりは簡単です。シェフの技は共通で、何でもできます。「すきやばし次郎」は、私に米の炊き方の秘訣を教えてくれましたが、私は自分のレストランで何かを模倣することを課題にしてはいません。
私はただ、いろんなところへ行って、満足感を得て、食の観点から各都市をしっかり記憶したいと思うのです。そういう食べ歩きで、最後に「ふるいにかけられて」記憶に残るのは、せいぜい2~3種類の料理にすぎませんが、それが私にとって重要なカギになるのです。
―日本でそうした鍵になった料理は?
日本は何回か訪れてまして、そういう料理は数種あります。それらは、いわば何度も「咀嚼」して、身につけたものですね。
日本についてお尋ねなので、申しますが、「大福」というのをご存知ですか?この一品にまつわる、とても面白いエピソードがあるのです。私はあるとき、有名なジャーナリストたちとともに、パリの「シャングリ・ラ・ホテル」を訪れたのですが、そこにミシュランの星のついた中華料理店がありました。そこで大福を食べて感嘆し、何とかレシピを学びたいと思ったわけです。
モスクワに戻ってから、あちこちの中華料理店で、そのレシピを探し求めました。初めて食べたのが、中華料理店でしたからね。でも見つかりませんでした。その後、日本に行ったときに、この料理に出くわしまして、もう一度食べてみたのです。それは、三越の地階の食品コーナーでした。
そこで大福を見つけたときは、どうにも我慢できなくなり、翌日そこに通訳を引っぱって行き、料理人たちに根掘り葉掘り尋ねました。すると、私は、特別な割烹着を着せられて、厨房に連れて行かれ、調理方法を見せてもらえたのです。日本人はとても閉鎖的だと思ってましたけど。それはある種の情報伝達だったのですが、単なるレシピの説明以上の何かでしたね。彼らは料理ということをすごく真剣に考えていました。5人の料理人が出てきて、あらゆることを私に見せてくれました。どんな餅を選ぶか、それをどうするか、などなど。
モスクワに帰った私は、レストラン「Zodiac」で、この料理に「ワガシ・モチ」という名前を付けて作ってみました。私には、モスクワで和菓子屋を開くアイデアもありますが、まだ思案中です。
それ以外の「鍵」としては、もちろん寿司。これが2番目ですね。それからこれも当然ですが、蕎麦とラーメンです。
―ロシア料理の現状についてどうお考えですか?それは発展のどの段階にあるのでしょう?
やはり自分たちの料理、つまりロシア料理を作り、それを変えるように試みるべきだと思います。今起きているのは、ロシア料理の形成そして進化でしょう。そう信じたいです。
私の父もコックで、私を教育してくれました。これまでと違った条件の下でも進歩できるように。 父は私のためにレストランを開いてくれて、そこで料理の仕方を教えてくれました。今になってようやく、なぜ父がそうしたのか理解できます。私が勉強した料理学校では、私が学びたいと思うことのすべてを与えてはくれませんでした。
というのは、ロシアではいまだにソ連時代の流儀で料理を勉強しているからです。それは、どっさりマヨネーズを使ったもので、例えば、サラダ「外套を着たニシン」とか「オリヴィエ・サラダ」とか「カニ・サラダ」とか――これは実はカニなど入っていないのですが――そんな類のものですね。
これらの料理は、我々ロシア人の食習慣と嗜好にはすっかり入り込んでいるのですが、こんな味は、世界のどの国の人もピンときません。これは実は、本来のロシア料理などではないし、そもそもどんな料理の趣味、好みからも外れています。それが私には分かっています。革命前のロシアには面白い料理がすごくたくさんあったのですが。
概して、ロシア料理の歴史は3つの段階に分けられます。まずピョートル大帝以前の時代、つまりロシアに外国人が多くやってくる前は、コックは農奴でした。彼らは読み書きができるとは限りませんでしたから、現代まで伝わっている情報はごくわずかなのです。本も残っていなければ、レシピも分からないのです。残っているのは、ただ、当時の宴会がどんな様子だったかという描写にすぎず、それも、主にロシアに来た外国人が記したものです。ロシア人はニンニクがプンプン匂い、酒臭かったなんて、観察しながら書き留めていますね。ロシアは、「野蛮」ではあったが、いわく言い難いロシア的なものがずっと保たれていたのに、ソ連時代に単純化されてしまったのです。
次の歴史的段階は、1861年の農奴解放令の後です。一般的に言って、ロシアでは厨房の仕事は、人気があったためしがなかった。それは要するに“3K労働”だったのです。しかも、野良仕事でも徴兵でも役に立たない者が料理番にされました。
ところが、農奴解放後、農奴が金持ちの地主の家を去ると、地主たちは誰に料理をさせればいいか途方にくれました。こういう時に、エカテリーナ・アヴデーエワやエレーナ・モロホヴェツなどの料理本が現れたわけです。それらは、「若奥様への贈り物」と題されていました。これは、ロシアのレシピをフランス・ベースに乗せようとした時代でした。
そして、3番目の最後の段階がソ連時代で、食は単純化され、一様に平均化されたものとなりました。この時代の理想的人間がそうであったようにですね。そのほうが、料理、食品製造のプロセスも、人間そのものも、管理が容易だったのです。すべての人が同じ料理本で料理するようになり、標準化が進んでいきました。ですから、ソ連時代の料理は一種独特なのです。脂っこくで、重ったるくて、外国人には分かりません。 こういう料理は、私にはさっぱり面白くありません。
―ロシアの味、料理が分かるために食べるべき品を5つ挙げてください。
キュウリの塩漬けと黒パン(ライ麦パン)。黒パンは、「ボロジンスキー」がいいかも。これはずっと時代が下りますが、1812年のボロジノの会戦を記念して、コリアンダーの種で覆われています。これは散弾をシンボライズしているのです。それから、発酵させたキャベツを使った灰色のスープ。清涼飲料水のクワスを用いた、冷たいスープ。そしてデザートは、蜜菓子にしましょうか。