大詩人アレクサンドル・プーシキンにまつわる5つの神話の真偽は?

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ロシア・ビヨンド
 ロシアで最も有名な詩人が、ドン・ファン風の恋人たちの「リスト」をもっていたというのは本当だろうか?また、皇帝自らが、詩人の巨額の借金を返済したというのは?アレクサンドル・セルゲーエヴィチ・プーシキン(1799~1837年)に関する最も興味深い神話について、真偽を検証してみよう。 

1.「財産を継がせないぞ、と父が警告した」 

 プーシキンのギャンブル依存症については多くの伝説があり、しかも、そのほとんどが真実だ。プーシキンは、当時の基準からすると非常に裕福だったにもかかわらず、ギャンブル熱は、彼の懐具合に大いに影響していた。彼は、トランプゲームのブリッジ、ファロ、オンブルなどをやり、常に財産を危険にさらしていた。

 あるとき彼は、韻文小説の名作『エフゲニー・オネーギン』の未発表部分を危うく「スってしまう」ところだったが、最後の土壇場で取り戻すことができた。プーシキンの多くの恋人の一人でありミューズでもあったアンナ・ケルンは、プーシキンのこの情熱について次のように書いている。「プーシキンはトランプがとても好きで、これが、自分が唯一執着しているものだと言ったことがある」

 詩人の父親は、この悪習を好まず、そのせいで廃嫡するという噂が流れた。しかも、実際に父子の関係は良好とは言い難かった。しかし、財産を継がせないとなると、家族全体に悪影響を及ぼす。それに、巨額の借金をこしらえたからといって、こんな過激な措置をとる理由にはならない。そして、こうした父の意思を証拠立てる資料もない。

 だが、借金の額は途方もなかった。決闘で亡くなった後、プーシキンには、約15万ルーブルのカードでの負債があることが分かった(これは、現在の約2億4千万ルーブル≒240万ドルに当たる!)。

 しかし、それを払ったのは父親ではなかった。すべての借金は、皇帝ニコライ1世自身が引き受け、さらに国庫でプーシキンの家族も支えた。

2.「プーシキンには、ドン・ファン風の恋人の『リスト』があった」

 このリストは、まったくのフィクションというわけではない。1887年に、「アルバム 1880年プーシキン展」で公開されている。1829 年から詩人は、自分が好きだったり親しかったりした女性たちを、2 つのリストに書き留め、そこにはぜんぶで 37 名の女性が含まれていた。一部の歴史家の意見では、詩人は最初のリストに自分が惚れ込んだ女性の名前を書き、2つ目のリストには、ちょっと好きになっただけの女性の名を記したという。

 歴史家たちは、完全に正確ではないものの、プーシキンと何らかの関係があった女性たちの身元を明らかにできた。その中には、有名な作家・歴史家ニコライ・カラムジンの妻エカテリーナ、アンナ・ペトローヴナ・ケルン(後にプーシキンは、この女性について、その最も有名な詩の一つ「わたしは妙なる瞬間を覚えている…」を作った)、さらには、ツァールスコエ・セロー劇場の女優、皇宮の女官、フランスの公爵令嬢、オーストリアの銀行家の娘、オデッサ総督の妻、その他もろもろの有名な「自由な」あるいは既婚の女性がいた。 

3.「プーシキンはアレクサンドル・デュマである」

 この説を支持する者は、次のように主張する。すなわち、プーシキンは、死を装ってフランスに移り、そこでアレクサンドル・デュマの名前で小説を書き始めた。その理由は2つで、まず、彼が最後まで返せなかったトランプ賭博の借金、もう1つは皇帝ニコライ1世の命令である。皇帝は、プーシキンを密かに「スパイ」としてフランスに送り込み、そのかわりに詩人の借金を全額肩代わりし、家族を養った――。

 なるほど、実際のところ、プーシキンは、こんな自分の「役割」をうまくやってのけられたに違いない。彼はフランス語に堪能だったし、入り込むべきフランス上流社会のマナーも知っていた。あとは、具体的な役割と地位をつくるだけだ。作家アレクサンドル・デュマは、その結果として誕生した、というのがこの説だ。

 しかし、この伝説の支持者の主張(外見が似ていること、デュマの作品におけるプーシキンの生涯への言及、その他)にもかかわらず、反証もそれと同じくらいたくさんある。たとえば、アレクサンドル・デュマは、 1830 年代にはすでに作家として知られており、彼の戯曲の多くはその頃までにもうロシアの劇場で上演されていた。さらに、デュマは1830年の7月革命に参加したが、当時プーシキン自身は、ナタリア・ゴンチャロワとの結婚式の準備をしていた。

 致命的となった決闘の後、彼の友人や親戚の多くがプーシキンの自宅を訪ね、最期の日々には、8人もの医師が詩人を看取っている。だから、このときに彼と会った人たちが皆、「雲隠れ」を秘密にするように説き伏せられた、なんていう可能性はほとんどあり得ない。

4.「プーシキンはアフリカ人である」

 これはある程度真実だ。なぜなら、詩人の曽祖父は、アブラーム・ペトローヴィチ・ガンニバルと言い、現在のカメルーン(あるいはエチオピアとの説もあり、資料によりかなり異なる)の某所で生まれたからだ。18世紀初めにガンニバルは捕らえられて、奴隷市場で売買された。その後、ロシアの外交官サッヴァ・ラグジンスキーが彼をモスクワに連れて行った。1年後、彼は洗礼を受け、その際にピョートル1世(大帝)自らが代父となった。ロシアで彼は、ロシア軍の軍事技術者になり、後に少将に昇進。2度目の結婚で、詩人の祖父オシップ・ガンニバルが生まれている。

 この事実だけでも、「プーシキンはアフリカの詩人」と言われるのは故なきことではない。しかも、彼自身が、作品中で自分の歴史的ルーツについてしばしば言及している。とはいえ、実際には彼は、 8 分の 1 アフリカ人であるにすぎず、もう8分の1 はドイツ人で、残りの 75% は完全にロシア人だ。

 「プーシキンはアフリカ人」を信じない人は未だに多いが、アブラーム・ガンニバルの実在は各種文書に記録されているため、プーシキンがある程度アフリカ起源であることは疑いない。 

5.「ウサギがプーシキンを逮捕と死から救った」 

 プスコフ県ミハイロフスコエ村(プーシキンは当時ここに流刑となっていた)から、首都サンクトペテルブルクに向かう途中、プーシキンの馬車の前を横切ったウサギがいなかったら、詩人は、シベリア流刑になるか、デカブリストの乱に加わったかどで処刑されていた可能性が高い――。こんな神話がある。なるほど、彼は、デカブリストの乱に直接参加しておらず、政治的行動にも関与していなかったが、自由を愛するプーシキンの詩は、彼の運命を暗転させかねなかったから、サンクトペテルブルクに行くのは危険だった(ましてや流刑中には)。ウサギが道を横切るのは非常に縁起が悪いので、迷信深い詩人は馬車を引き返させた、というのがこの神話の内容だ。

 ただし、この伝説がどれほどもっともらしく聞こえようとも、現実はもう少し複雑だった。詩人の友人セルゲイ・ソボレフスキーの記すところでは、ウサギがプーシキンの進む道を横切ったのは首都に向かう途中ではなく、近所の人たちに別れを告げに行ったときだった。そして、詩人を止めたのはウサギではなく、18世紀のもう一つの凶兆、つまり敷地の門に入る司祭だった。その後でやっと、プーシキンは当地に留まることに決めた。

 しかし、それでもウサギは、不滅の歴史的記念碑となった。2000年、ミハイロフスコエの近くに、早死から詩人を「救った」ウサギの記念碑が建てられた。しかし、周知の通り、仮にウサギが彼を助けたとしても、それはほんの短い間にすぎなかった。プーシキンは、それでも若死にした――37歳で早世したからだ。

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