皇帝ニコライ1世に関する7つの主な事実

フランツ・クリューガー
 彼の治世は、いわゆる東方問題に発する大戦争、つまりクリミア戦争では、悲惨な敗北を喫したものの、ロシアの産業発展の背景には、彼の政策決定があった。

 ワシリー・ミトロファーノフは、皇帝ニコライ1世の侍従を務めたことがあるが、皇帝に自己紹介をしつつ、その眼差しを見つめていたときのことをこう回想している。

 「全身の勇気を振り絞っても、彼の左目の凄まじい輝きには耐えられなかった。あたかもそこから灼熱した真っ赤な釘が突き出て、私の目を焼き尽くすかのようだった…。私は、その鋭い眼光を死ぬまで忘れないだろう。それは、私のような、臆病者の範疇に入らない人間すら狼狽させるのだ」

 画家フョードル・トルストイの娘であるエカチェリーナ・ユンゲ(作家レフ・トルストイの従妹に当たる)も、こう振り返っている。「話が進むにつれ、皇帝が凝視すると、その眼光は即座に人を殺すことができた」。この「殺人的」な眼差しの持ち主はどんな人物だったのだろうか?

ロシアのツァーリのなかで2番目に長身

 ロシアの皇帝のなかでニコライ1世は、身長204.5cmのピョートル大帝(1世)に次いで、2番目に背が高いと考えられていた。ロシアの作家クセノフォント・ポレヴォイによる記録からそのことが分かる。すなわち、ロシアの俳優ワシリー・カラティギンが芝居でピョートル大帝を演じた後、ニコライは自分の身長をカラティギンのそれと比べて、この俳優は自分より背が高いと言ったという。皇帝は189cmあった。

 「高い額、輝きと威厳に満ちた目、やや皮肉な表情の口、英雄を思わせる分厚い胸、巨大な身長、そして威厳のある足取りが、この君主に並外れた外見を与えた」。同時代のパッシ伯爵は記している。

「デカブリストの乱」を鎮圧

 ニコライ 1 世の治世は、「デカブリストの乱」の混乱のさなかで始まった。この反乱は、ロマノフ王朝の専制を制限あるいは打倒し、ロシアに立憲君主制または共和制を樹立しようとするものだった。反乱を起こしたのは、国のエリートに属する少数の若い官僚と軍人だった。

 しかし、皇帝は君主制を断固守り、忠実な軍隊を使って反乱を鎮圧した。とはいえニコライは、流血で治世を開始する羽目になったことを決して喜ばなかった。「私は皇帝だが、ああ、何という代償を払ったうえでのことか。神よ! 私の臣民の血を犠牲にしてだ」。ニコライは弟のコンスタンチンに手紙でこう書いた。

ロシアの鉄道の生みの親

 ニコライ1世の治世に、ロシア初の旅客鉄道が開通している。モスクワ・サンクトペテルブルク間だ。ロシアの鉄道の幅(軌間)を5フィートつまり1,524 mm(ヨーロッパでは 1,435 mm)に決めたのはニコライ 1 世だった。 

 ニコライが下したこの決定は、長期にわたる結果をもたらした。これにより、ロシアの欧州における敵国は、軌間が異なるため、鉄道で軍隊をロシア本土にそのまま移送することはできなかった。今日に至るまで、国際列車は、ロシア国境で台車交換を行い、目的地に向かわなければならない。 

ニコライの治世にロシアの法体系が整備される

 ニコライ1世が即位した1825年の時点では、ロシアの法律と政治制度は、整った状態にはなかった。ピョートル大帝時代(17世紀末~18世紀初め)の法律も、1世紀前のそれも、さらに他の多くの法律も混在しており、しかもいずれも有効だったので、法律分野に混乱を引き起こしていた。ニコライ1 世は、かつてアレクサンドル1世の時代に改革を担った政治家ミハイル・スペランスキーを再登場させて、法典化を命じ、1830 年代までに完成させた。 

  46 巻の『ロシア法大全』は、すべての法律を時系列にまとめたものであり、『ロシア帝国法律集成』は、有効な刑法および民法の法典だった。ロシアの法律の法典化に関する仕事により、スペランスキーは最高の国家勲章である聖アンドレイ勲章を授与されている。 

良き家庭人だったが愛人もいた

ワルワーラ・ネリドワ

 ニコライ 1 世は、臣下に対しては要求の厳しい君主だったが、家族に対しては寛容で、愛情深い父親だった。宮廷の女官マリア・フレデリクスは次のように回想している。

 「皇帝ニコライ・パーヴロヴィチは、最高に優しい家長であり、陽気で、冗談を飛ばし、深刻なことはすべて忘れて、最愛の妻、子供たち、そして後には孫たちと静かな時間を過ごした」

 しかし、彼の子供たちは甘やかされず、比較的質素に育てられた。天気に関係なく、子供たちがそうしたいときは戸外で遊ばせられた。また、男子も女子も、水兵からボート漕ぎを習った。

 息子たちについては、 ニコライは軍隊式に育て、他の若い士官候補生といっしょに訓練や演習に連れて行き、特別扱いはしなかった。

アレクサンドラ・フョードロヴナ

 しかし、晩年にニコライと妻は、次第に距離ができていった。7人の子供を出産した後、皇后アレクサンドラは病身となり、医師は彼女に「長期休暇」を勧めた。この頃には、皇帝には寵姫ワルワーラ・ネリドワがいることが知られていた。

 「ツァーリは日々、ネリドワのことでますます忙しい。日に数回は彼女を訪れる。舞踏会ではいつも彼女の近くにいようとする。哀れな皇后はこれらすべてを目の当たりにしても、尊厳をもってそれに耐えているが、どんなに苦しんでいることだろう」。女官マリア・ネッセリローデは書いている。

ロシアの農奴制廃止の準備をした

 デカブリストの乱の目標の 1 つは、ロシアにおける農奴制の廃止だった。しかし、ニコライ1世は、農奴制が国の発展を妨げていることも理解していた。かくして、彼の治世に秘密委員会が組織され、農奴制廃止の可能性が議論された。

 1855年、逝去する1か月前でさえ、ニコラスは政治家ドミトリー・ブルドフにこう語った――農奴が解放されるまで死にたくない、と。

 しかし彼は、農奴が土地を所有した場合にのみ解放すべきだと考えていた(*つまり、農奴は土地付きで解放すべきである)。「これらの人々が農奴制から解放されたときにのみ、私は幸せになれるだろう」。ニコライは女官アレクサンドラ・スミルノワ=ロセットに語ったという。

 残念ながら、ニコライ1 世は、生前に農奴を解放することはできなかった。しかし、彼の治世では、農奴の所有者が土地なしで農奴を売買することは禁じられていた一方、地主の土地屋敷が借金のために売却された場合、農奴身分から解放することは許されていた。ニコライの息子アレクサンドル 2 世が 1861 年についに農奴を解放したとき、彼と政治家たちは、ニコライ 1 世の下で作成された資料と法律草案を利用した。

絵画と音楽に熱中 

 ニコライ1世は、注力すべき重要な問題に取り組む合間にいつも、音楽や絵の稽古をする寸暇を見出した。若い頃、ニコライは軍事技術者としての教育を受けた。これには、橋、大砲、地図など、多様な製図、図面の作成が含まれていた。これが、ニコライが優れた画家になった理由だ。また彼は音楽が好きで、さまざまな金管楽器を演奏した。孫である将来のアレクサンドル 3 世がトランペットを熱心に習うようになったのは、祖父の演奏に触発されてだった。

 

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