日本の偉大な映画監督・黒澤明が日本国外で、日本語以外で製作した作品はたった1本だ。そしてそれが、ロシア語の映画なのである。黒澤がモスフィルムから提案を受けた時、彼は苦難の時期にあった。健康上の問題に加え、国内で投資家による事実上のボイコットを受けた黒澤は自殺未遂まで起こした。
ロシアの冒険家ヴラジーミル・アルセニエフの紀行『デルス・ウザーラ』の映画化(1975年公開)によって黒澤は映画業界への復帰を果たした上に、この作品は彼にとって2つ目となるアカデミー賞をもたらした。これは映画における日露/日ソの協力の最も有名な事例だが、無論、唯一ではない。
魔法のマトリョーシカ紀行
スターリンの死後、外交関係においても雪解けがやってきた。日ソ共同宣言10周年に合わせて、最初の共同作品が公開された。映画『小さい逃亡者』(1966年)は、日本の少年の冒険譚である。
少年は、モスクワで治療中だという父に会うために、遠い遠い異国の地まで行きたいとロシアの魔法のマトリョーシカに願った。そして願いはかなう。10歳の健少年は冒険を重ねて目的地に辿り着く。その道中では国境警備隊や猟師やその他のソ連人たちの助けを得る。
健少年をめぐる人物の中には、レオニード・ガイダイ映画でお馴染みのコメディ俳優にしてソ連サーカスの大スター、ユーリー・ニクーリンも、本人役で出演している。
この作品は均等な配分の原則のもと撮影された。2人の監督と日ソ混成チーム(字幕も2か国語である!)、物語の舞台も2か国にまたがる。かつてのイデオロギー的敵同士も平等に魅力的に描かれ、社会主義ロシアにも資本主義日本にも、親切な人々が暮らしている。
もっとも、完全に均等とはならなかった。ソ連パートの方が長く、描写はより美しい。東京の場合はいまだ未解決の問題が残っているのに対し、ソ連はもう万事が整っているかのようで、欠点といえば、飛行機が欠航になるような悪天候だけといった具合だ。
忘れられたスポーツ映画
1980年、モスクワはオリンピックの舞台となった。この祭典に合わせて、やはり均等の原則のもと撮影されたのが、バレーボールを題材にしたスポーツ映画『メダルへの道』(邦題「甦れ魔女」)である。1960年代から日本とソ連の女子バレーボールは永遠のライバル同士であっただけに、映画のテーマは熱い。1964年と1976年の五輪では「東洋の魔女」が金メダルを、1968年と1972年はソ連チームが金メダルを獲得していた。
『メダルへの道』は、2人のバレーボール選手のストーリーを情緒豊かに描写する。ターニャと恵はライバルチーム同士ながら友情を育み、モスクワ五輪に至るまでの様々な日常の困難に立ち向かって行く。エピソードの1つは実際の日本vsソ連戦の最中に撮影され、しかも、ターニャを演じた女優タチヤナ・タシュコワは実際に交替選手として途中出場した。
だが、この作品は不運だった。ソ連のアフガニスタン派兵に抗議した国際的な五輪ボイコットに日本も参加したため、映画は適時性を失ってしまい、長く忘れ去られてしまった。1984年のロサンゼルス五輪は、今度はソ連がボイコットしたため、ターニャと恵がもし対戦したとすれば、それは1988年のソウル五輪まで持ち越されただろう。
ロシア芸術と愛をうたった2本の恋愛映画
栗原小巻は、ソ連で最も知られていた日本の女優だろう。1970年代、彼女が主演した2本の恋愛映画が公開された。話の筋も似ている。日本からソ連に来た美女の愛の物語である。
『モスクワわが愛』(タイトルは日本側の提案による)では、栗原はバレリーナを演じ、彫刻家(オレグ・ヴィドフ)に恋をする。結末は悲劇的で、2人は結ばれない運命であった。ヒロインが生まれたのは、アメリカの原爆の被害を受けた街・広島である。過去の惨禍は不治の白血病としてヒロインを苦しめる事になる。
監督のアレクサンドル・ミッタは栗原を気に入り、『エキパーシュ』(邦題『エア・パニック』、1979年)に特別出演させ、後に彼女のために『シャグ』(1988年)を撮った。この作品は実際の出来事がモチーフとなっている。1950年代、ポリオの大流行時にソ連産ワクチンの輸入に成功して、数千の命を救った日本人女性のストーリーだ。
栗原小巻主演のもう1つの恋愛映画を撮ったのは、セルゲイ・ソロヴィヨフ。のちにペレストロイカ期の記念碑的作品『Assa』の監督である。『白夜の調べ』(このタイトルはソ連側の役人が推した)で栗原は、指揮者(ユーリー・ソローミン、黒澤の『デルス・ウザーラ』にも出演したスターだ)に恋するピアニストを演じた。この映画も悲劇的なストーリーだが、そのビジュアルは大変に美しい。それもそのはず。撮影を担当したゲオルギー・レルベルグは、アンドレイ・タルコフスキーの『鏡』の撮影監督なのだ。
ベストセラーの映像化作品
日本の作家には、トルストイやドストエフスキーの国を愛した人も多い。例えば五木寛之は早稲田大学在学中にロシア語を学び、後に仕事で訪ソしている。この訪ソ経験は後にデビュー作『さらばモスクワ愚連隊』(1966年)に活かされ、一躍期待の作家として注目を浴びるようになった。この作品は2年後に映画化されると、五木の名声は不動のものとなった。映画のモスクワパートはパビリオンで撮影され、ロシア人サキソフォニストのミーシャは、移民のピョートル・アレクセーエフが演じた。劇中、日本のジャズ奏者がこのミーシャにスウィングを伝授する。
ロシアといえば大作家と、雪深い冬である。五木作品のもう1つの映像化である『大河の一滴』(2001年)では、日本人女性がロシア人のトロンボーン奏者に恋をする。劇中、彼は日本を追われ、妻を連れて雪深いにモスクワ郊外に戻って行く。
児童向けの動物譚を多く執筆した戸川幸夫の中編『1912年 オーロラの下で』を映像化した『オーロラの下で』(1990年)は、日本人猟師とその友である半狼半犬がシベリアのタイガで生き抜く、ほとんどスリラーのような作品である。ちなみに、本作には商人のチョイ役でアカデミー賞監督のニキータ・ミハルコフが出演している。
だが、もっとも壮大な映像化作品といえば、歴史冒険大作『おろしあ国酔夢譚』で間違い無い。井上靖の同名小説は、史実をもとにしている。1782年、神昌丸は嵐に遭遇してロシアに漂着してしまう。船頭の大黒屋光太夫をはじめとする船員たちは、母国に帰還するまでの約9年を異国で過ごした。
しかし、彼らの苦難は無駄には終わらず、両国関係を近づけるのに大きな役割を果たしたのである。この船員たちのおかげで、ロシアでは日本に対する理解が深まり、母国にはロシアのことを多く伝えた。エカチェリーナ2世の役はフランス人のマリナ・ヴラディ。学者役は、タルコフスキーの『鏡』や『ノスタルジア』で世界に知られるオレグ・ヤンコフスキーである。
ピオネールとチェブラーシカのアニメ
日本とソ連/ロシアのアニメーターは何度か共同で作品を作っているが、本当に「合作」といえるものは出なかった。いずれの場合も、あるいはソ連の、あるいは日本のアニメーション技術が中心の作品となっている。しかし、どの作品にも個性が光る。
最初の試みはアニメ『12か月』(邦題『森は生きている』、1980年)とされる。日本でもわりと知られているサムイル・マルシャークの童話作品の映像化である。モスクワの作曲家ヴラジーミル・クリフツォフが手がけたサウンドトラックは、レニングラード国立フィルハーモニーが演奏した。しかし、ソ連の出番はこれでほぼ終了している。他の作業はすべて東映動画による。
それから25年後に、実にユニークな企画が発生した。ロシアのプロデューサーであるミハイル・シュプリツとアレクセイ・クリモフの発注により、日本のSTUDIO 4℃がアニメ作品を製作。その内容は…大祖国戦争中、ナチス側についた十字軍の亡霊に立ち向かうピオネールたちの活躍、というもの。この『ファースト・スクワッド』(2005年)はロシアでヒットこそしなかったが、評論家には好評をもって迎えられた。しかし残念ながら、日本では公開されなかった。
逆のパターン、すなわち、日本側の発注に基づいてロシアで製作された事例も存在する。『小さなペンギン ロロの冒険』(1986~1987年)は、シリーズと長編の2つのバージョンが存在する。ソ連最大のアニメーションスタジオ「ソユーズムリトフィルム」をベースに製作された。プロデューサー、美術、監督など製作スタッフは恒例の混成であったが、ソ連側スタッフが製作上のメインとなった。製作と表現技法は、ソユーズムリトフィルムの伝統的な手法に則っている。
ペンギンのロロは日本の視聴者にも受け入れられたが、その知名度は別のソ連産アニメキャラ、チェブラーシカには遠く及ばない。
ロシアでは今冬、この「現代科学には知られていない小動物」が主人公の新たな長編が発表され、記録的な興行収入を叩き出した。もっとも、チェブラーシカの物語はそれ以前に、日本でリメイクされている。アニメ『チェブラーシカ あれれ?』(2009年)と、人形アニメ『チェブラーシカ』(2013年、ロシア側との協力作品)が発表された。後者のエピソードの1つは、『ワニのゲーナ』シリーズ(1969年)の第1話の各カットを撮りなおしたものである。この作品はチェブラーシカの造形を手掛けた美術監督レオニード・シュワルツにも披露され、彼も当初は撮り直しだと気づかなかったほどであったという。