ロシアの思想家たちは何世紀にもわたって議論してきた。ロシアはヨーロッパの発展の道を選ぶべきか、それとも逆に自らの独自性に基づくべきか、あるいはアジアの隣国からより多く学ぶべきか(より詳しくはこちらで)。
レフ・トルストイ(1828~1910)の思想は、極めて独自のもので、どの陣営にも与しない。ロシアは、西欧とその価値観を必要とするか――この問題についての彼の意見は、実にユニークだ。
ヨーロッパ諸国の「自由は似て非なるものである」
トルストイは、自分が生活していたロシアの現実に対しても極めて批判的であり、故国に蔓延している「家父長制的な野蛮、窃盗、無法行為」について不満をぶちまけている(彼は、叔母アレクサンドラへの手紙にこう書いていた)。その一方で彼は、西欧の思想家の幾人かを愛し、高く評価していた。
トルストイは早くも 15 歳のときに、フランスの啓蒙思想家ジャン=ジャック・ルソーの著作に初めて出会い、全集12 巻を熱心に読破した。「ヨーロッパ民主主義の父」は、この少年に強い感銘を与えた。ルソーは、人類の「自然状態」を市民社会と対比し、人々の不平等の原因は私有財産だと認識し、民主主義を提唱していた。
ルソーの思想は、若きトルストイの意識に浸透し、実際に後年の世界観の基礎を形作った。亡くなる5年前、彼は次のように書いている。
「ルソーは、15 歳のときから私の師だ。私の人生には、二つ極めて大きく有益な影響をもたらしたものがある。ルソーと『福音書』によるそれだ」
このように、トルストイは、西欧の一部の思想家を高く評価していたが、西欧の現状には否定的であり、次のように考えていた。西欧社会の状態は、ロシアよりさらに悪く、範とするには適さないと。
トルストイは1857年と1860~1861年に、二度にわたり長期の西欧旅行をしている。二度目は、当地の教育制度と教授法の研究が目的だった(旅行に先立ちトルストイは、自分の領地とその周辺に、農民の子供たちのための学校を開いていた)。だが、旅行は彼を失望させた。彼は、西欧各地の学校において、自分にとって新しく有益なものを何も見出すことができなかった。さらに、彼は、欧州に広まっている倫理観、社会道徳にも衝撃を受けた。
彼はパリでギロチンによる公開処刑を目撃し、大きな衝撃を受けた(トルストイはこの旅行中にイタリアとスイスも訪れている)。当時のフランスでは、こうした処刑は、ありふれた身近な「娯楽」であり、大勢の「観客」を引きつけていた。
「野蛮な」ロシアにおいてさえ、このような見世物は考えられなかった(公開処刑は、作家が生まれる遥か前に廃止されていた)。トルストイは、殺人が見世物にされていることにくわえ、殺人が自動化され、それ用の特別な機械で行われていることにショックを受けた。そして、彼はヨーロッパ諸国の精神全般についての結論を出すよう迫られた。
また、トルストイは、ヨーロッパ社会が標準として認識している「自由恋愛」に不快な驚きを覚えた。彼が滞在した下宿に住んでいた36組のカップルのうち、19組が正式に結婚していなかった。作家のこうした反応は、偽善によるものではない。トルストイは、女性に対する自分の欲望に生涯悩み続け、それを著作などで自認していた。そして彼は、肉欲が他のあらゆる罪悪につながり得る、人間の主な罪の一つだと考えていた。だから作家は、社会が「肉の罪」をこのように「正当化」することは、人々の全般的な堕落に導かずにはいないと見ていた。
ロシアの過ち
トルストイが若い頃にヨーロッパ、その価値観、自由観から受けた印象は、年を追うごとにラディカルになっていった。「ヨーロッパとアメリカの人々は、ある道をあまりに遠くまで進んできた人間の状態に似ている。それは、最初は正しい道に思われたのだが、進めば進むほど目標から遠ざかってしまった。そのため、自分の過ちを認めるのを恐れているのだ」。トルストイはずっと後の1905年に論文「大いなる罪」にこう書いている。
トルストイの考えによれば、ロシア人は、そのあらゆる短所にもかかわらず、欧米人とは違って、進もうとした道からまだ完全に逸脱はしていないから、正しい道を歩み続けることができるだろう…。ところが、この道を歩み続ける代わりにロシアは、「欧米で行われていることを何から何まで猿真似している」。これをトルストイは嘆き、大きな誤りだと考えた。
彼の見解によると、ロシアの民衆はその指導者らに次のように唆されている。「混乱し死につつあるヨーロッパとアメリカの後塵を拝し、できるだけ早く堕落し、自らの使命を放棄して、ヨーロッパ人のようになれ、と」。トルストイはこう記した。
トルストイによれば、ヨーロッパの全歴史は、愚かで堕落した支配者たちの歴史であり、「人々を殺し、破滅させてきた。そして、最も肝心な点は、人々を堕落させたことだ」。論文「『必要なことはただ一つだけである』:国家権力について」で、トルストイは「淫乱なヘンリー8世」、「悪人クロムウェル」、「偽善者チャールズ1世」を同列に論じている…(*「必要なことはただ一つだけである」は、ルカ伝10-40からのキリストの言葉の引用。この論文は、日露戦争当時に書かれたもので、なぜ、本当は望まぬ戦争と殺人に人々が赴くのか、赴かざるを得ないのか、その権力のメカニズムを論じている)。一方、トルストイは、ロシアのツァーリたちも理想化してはいない。何しろ彼は、あらゆる国家権力とその装置を暴力として否定したのだから。
だから、トルストイは次の点に落胆していた。すなわちロシアでは、欧米のひそみに倣い、「すべての市民の自由と福祉を保証する」権力形態と政治形態があるかのように強弁し、その導入を呼びかけている。彼の意見では、ロシアは、欧米のように「報道の自由、宗教的寛容、結社の自由、関税、執行猶予、政教分離」などについて考える必要はない。
そして、肝心なことは、トルストイによれば、ロシアは農民の国からわざわざプロレタリアの国に変わる必要はないこと。彼が最も道徳的で正しいと考えたのは、どの国においても農民の生活だったからだ。