教育者レフ・トルストイ:彼の学校と児童教育の特長は?

レフ・トルストイとその孫たち、1909年

レフ・トルストイとその孫たち、1909年

Ignatovich/Sputnik
 ロシアの大作家、レフ・トルストイ(1828~1910)は、ロシアとヨーロッパで行われていた教育を嫌い、別のアプローチを推し進めた。厳密なスケジュールを決めず、宿題を出さず、体罰厳禁で、何よりも自由を尊重した教育を、自らも教壇に立って展開した。

 「私の人生で最も明るい時期は、私が女性に愛を捧げたときではなく、すべての愛を庶民に、とくに子供たちに捧げたときだった。この時期は、とくにそれに先立つ暗い時期に比べれば実に素晴らしい時間だった」。トルストイは、児童教育に打ち込んだ日々を後にこう振り返っている。

 当時すでに有名作家となっていたトルストイは、1859年に自宅に学校を開設し、教育に情熱を傾ける。彼自身の言葉によると、教育こそは「世界で最も重要な仕事である。なぜなら、我々が夢見ることがらはすべて、次の世代のおかげで実現し得るからだ」。彼の望みは、貴族と農民の壁を乗り越えて両者を結びつけることで、彼は、若い世代の教育を通じて、互いに学び合う中でそれを実現しようとした。

 ロシアと外国で普及している学校制度を実際に自分の目で見て、彼は落胆した。1857年と1860年に彼は西欧を旅行しているが、ドイツの学校の一つを訪れた後、次のように書いた

 「学校を訪れた。実にひどい。王のための祈祷、体罰。何でもかんでも暗記。(精神的に)脅かされ損なわれた子供たち」 

 「私は、フランス、スイス、ドイツの学校で目にした無知蒙昧について、本を何冊も書くことができるだろう

 西欧旅行のおかげで、トルストイは、自分の領地ヤースナヤ・ポリャーナの邸宅に、農民の子供たちのために自分の学校を開こうという意思が固まった。

 

「教育は楽しくあるべきだ」

レフ・トルストイと農民の子供たち

 開校初日にトルストイの学校にやって来た子供は22人。この数は数週間で3倍に増えた。学校は、生徒たちの完全な自由に基づいており、他の学校で幅を利かしていた体罰はまったくなかった。また学校は女子にも開かれていた。

 「教育を受けることは、すべての人に備わった欲求だ。だから、教育は、その欲求を満たす形でのみ存在できる」。トルストイはこう確信していた

 「教育が効率的で有効であるための鍵は、そのプロセスがいかに楽しいかだ。 実際の教育と書物を用いたそれは、罰によって強制されてはならず、生徒にとって楽しくなければならない」  

 トルストイの学校では、子供たちはテキストを暗記したり宿題をしたりする必要がなかった。好きなときに来て、帰宅することさえできた。授業は午前8時~9時ころに始まり、正午には昼休みがあって、その後、さらに3~4時間の授業が行われた。トルストイ自身を含むすべての教師は、1日に5~6回授業をした。

 生徒は、年齢別に3グループに分けられ(日本風に言えば、小、中、高)、それぞれの進捗状況と興味に応じて、カリキュラムは異なった。科目も、因習的なものではなかった。教師との対話の形で行われ、読書、数学、宗教、地理、自然環境、歌、絵画、物理学、歴史などをカバーしていた。トルストイは、実生活で大事なもの、あるいは道徳的に重要なものだけを子供たちに教えようとした。

 「学校はいつも愉快だった。誰もが授業を楽しんでいた」。元生徒の一人、ワシリー・モロゾフは回想する

 「レフ・トルストイは、我々以上に、授業を楽しんでいた。彼はあまり熱心に働いたので、しばしば朝食をとり損ねた。学校では彼はいつも真剣で、我々が几帳面であること、学校の備品を丁寧に扱い、真実のみを話すことを望んでいた。誰かがばかげた冗談を言うと、彼は気に入らなかった…。そして我々が彼の質問に正直に答えると、彼はとても喜んだ」

 

「私はこれらすべてのプーシキンたちを救いたい」 

レフ・トルストイとヤースナヤ・ポリャーナ学校の生徒たち、1908年

 トルストイの教育活動は、一つの学校だけにとどまらなかった。彼の尽力で、トゥーラ県(現トゥーラ州)に、同様の学校が少なくとも20校開設され、彼は、教育専門雑誌を刊行し始めた。彼の「非正統的」アプローチは、ロシア内外で世間の注目を集め、当然、貴族たちはそれが気に入らなかった。

 1862年、トルストイは、官憲による家宅捜索を受け、学校閉鎖に追い込まれる。その直後に結婚し、数年にわたり名作『戦争と平和』執筆に取り組んだが、ようやく1871年に教育活動に戻り、初等読本を執筆する。この間、彼は、再び農民の子供たちを教えることで、この地域の他の学校の状況に好影響を及ぼそうとした。

レフ・トルストイと妻ソフィア、ヤースナヤ・ポリャーナ邸宅

 1874年12月、トルストイは叔母アレクサンドラ・トルスタヤにこう書き送っている

 「私は今や、抽象的な教育学から実践に移り、それに没頭しています。…これら何千もの子供たちに、14年前と同じように惚れ込んでしまいました。…私は、学校の中に入り、子供たちを見ます。彼らは、汚い襤褸をまとい、痩せこけているが、澄んだ目をして、しばしば天使さながらの表情をしています。彼らを見ると、まるで溺れる者を見たときのような戦慄と恐怖を覚えるのです。…私が民衆を教育したいのは、ただただ、これらの空しく溺れ死んでいく、世が世なら詩人プーシキンや数学者オストログラツキーや府主教フィラレートや万能の天才ロモノーソフになり得たような者たちを救うためなのです。こういう子供たちがどの学校にもたくさんいます。そして私の教育の仕事はとても順調に進んでいます」 

 

今なお存在するトルストイ式学校

 トルストイの没後、彼の創設した学校は、さまざまな浮き沈みを経てきた。大祖国戦争(独ソ戦)の間に、学校は全焼し、壁だけが残った。

 しかしトルストイ学校は、今日でも活動している。2019/ 20学年度には、45人の教師が働き、トゥーラ州の生徒233人が在学している。この学校は今でも、偉大な作家の原則にしたがっており、ベルリンの「レフ・トルストイ小学校」と国際学生交流で協力している。 

 「我々の学校には、世代間に強い絆がある」。トルストイ学校の科学的・方法論的研究部副部長、アレクサンドル・スホルコフ氏は言う

 「子供たちはここで勉強し、大学に入り、その後母校に戻って働く。そして、子供たちに教える。トルストイの教育に関心のある訪問者もよく訪れ、我々は常に喜んで迎える」 

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