作家アンドレイ・プラトーノフの生涯と作品:なぜ共産主義者がディストピアを書いたか

カルチャー
ワレリア・パイコワ
 作家アンドレイ・プラトーノフ(1899~1951)は、文学に大きな影響を与えただけでなく、その名前が、極めて独創的なスタイルの代名詞ともなった。こんな作家はまずいない。プラトーノフは――彼を好む人も嫌う人もいるだろうが――、ソ連時代の大作家の一人として、確固たる位置を占めている。

 ノーベル賞を受賞した詩人ヨシフ・ブロツキーは、プラトーノフを「我々の時代の傑出した作家」であり、20世紀文学を代表する一人だと述べたうえ、この優れたソビエト作家をマルセル・プルースト、フランツ・カフカ、ロベルト・ムージル、ウィリアム・フォークナー、サミュエル・ベケットらと同列に置いた。

 しかし、プラトーノフについては一つ重要なことがある。彼は、ボリシェヴィキ革命を支持し、共産党に加わった人物だが、その重層的で陰影に富んだ豊かな作品世界は、虚偽の上に構築された全体主義社会を容赦なく暴露した。プラトーノフの登場人物たちは、共産主義の中に身を置こうとするが、安住の地は見つからなかった。

青年時代と初期作品

 プラトーノフは、鉄道の運転士・修理士の息子として、1899年にロシア南西部のヴォロネジで生まれる。本名はアンドレイ・クリメントフ。彼は1920年に自分の筆名を考えたが、その際に、父親プラトーン・クリメントフに敬意を表した。この父はいくつかの発明をし、「労働英雄」の称号を2度にわたり授与されている。

 アンドレイは、11人の子供の最年長で、最初にした仕事は書類関連の雑務だ。わずか13歳だった。その頃、彼は詩作も始める。その後、父に倣い、当時の工業の象徴だった南東鉄道の運転士の助手として働いたこともある。後に、プラトーノフが革命とユートピアのテーマを比喩的に示すために最も多用するイメージの一つは、列車や機関車となった。

 同世代の多くの若者と同様に、プラトーノフは、1917年の10月革命を歓迎した。内戦が始まると彼は、赤軍に弾薬を届ける列車で、運転士の助手を務めた。

 その30年後、最もソビエト的であり、ソ連作家の中でも最も真摯だった彼が、ソ連政権によって迫害され、「村八分」にされるとは、誰が想像できただろうか。共産主義のユートピアを本当に信じていたソ連の天才は、結局のところ、その犠牲者になった。

プラトーノフの文学への愛憎

 プラトーノフの処女作『電化』は、1921年に出版された。1920年代を通して、彼の作品はソ連の主要な文芸誌に掲載されていた。彼は地元の文壇で重きをなしていき、ジャーナリストとしても活動した。そして、哲学的および政治的問題に関する公開講演にも参加している。

 こうした最初の成功にもかかわらず、文学はプラトーノフにとってすべてではなかった。工科大学を卒業した後、彼は電気技師として働き、1921年にヴォルガ沿岸地域を襲った大干ばつを受けて、この地域の農業に電気を導入した。

 プラトーノフは、人為的要因による飢饉のありさまを目の当たりにして、もはや「瞑想的な活動」を楽しめなくなったと述べている。1920年代の彼の作品のいくつかは、飢えた貧しい農民を描き出している。

 将来こうした干ばつが発生するのを防ぐために、作家は、土地管理局のヴォロネジ支部に就職した。彼は、763もの貯水池と315の井戸を掘り、いくつかの橋とダムを建設し、3つの発電所を設置した。

 1920年代後半には、プラトーノフは、執筆活動のために電気工学関連の仕事を減らした。そして、作家はモスクワに移ったが、そこで彼の文学上のキャリアは破綻する運命にあった。

作家の両刃の剣 

 プラトーノフは、実生活においては、社会主義社会建設に向けてのソ連のプロジェクトにコミットしていたが、彼の小説と物語は、実生活と並行していわば独自の生活を営み、ソ連のイデオロギーに根差す官僚的弊害を嘲笑していた。この二元論は危険であり、結局、プラトーノフの作家としての生命を葬ることになる。 

 「正しい」ソビエト作家は、体制を声高に批判するのではなく、工業化と農業集団化の成果を讃えることが期待されていた。プラトーノフによる批判は、明らかに独裁者ヨシフ・スターリンにとっては危険信号だった。雑誌「赤い処女地」に、この作家の小説『ためになる』が載ったが、その同じ紙面で独裁者は彼を「ろくでなし」罵ったのは有名だ。

 逆説的だが、これはプラトーノフが共産主義のユートピア、ソ連政権、農業集団化などの敵だったことを意味しない。彼は、ソ連的ユートピアの言語を武器として巧みに用いた。この点で、イサーク・バーベリ、ユーリー・オレーシャ、エヴゲニー・ザミャーチン、ミハイル・ブルガーコフ、ミハイル・ゾーシチェンコなど、同時代の作家の多くとは異なる。彼らは、言語に備わる柔軟性を駆使しているが、プラトーノフは同時代の生(なま)の言語に身を委ね、時には複雑なプロットとか捻りのきいた文体といったものを犠牲にした。

代表作

 プラトーノフが「社会主義リアリズム」の巨匠と呼ばれるのは故なきことではない。彼の傑作『チェヴェングール』(完成した唯一の長編)は、1920年代に、ソ連の建国者ウラジーミル・レーニンによって導入された「新経済政策」(ネップ)の時期における生活の裏面をのぞかせてくれる。これは、作品の根底にあるイデーを理解するために何度も繰り返し読まねばならない本の一つだ。ちなみに「新経済政策」とは、内戦といわゆる「戦時共産主義」による国の疲弊を回復させるために、市場原理を部分的に導入した政策。 

 題名になっているチェヴェングールは共産主義の理想郷で、共産主義が猛烈なペースで導入されたものの、その結果は破局だった。スターリンによる集団化を目の当たりにしたプラトーノフは、それを悪魔的と言ってもよいほど犀利に描き出している。

 この小説は、実際に出版される予定だったが、ソ連の検閲官は、イデオロギー上の理由で、土壇場でそれを撤回した。検閲官は、この作品が体制を動揺させ、社会主義建設の思想を脅かすとした。プラトーノフは、自分は小説を「異なる意図」で書いたと主張したが、誰も聞く耳をもたなかった。ペレストロイカ期の1988年にいたるまで、この作品は完全な形で出版されることはなかった。

 プラトーノフの次の傑作は『土台穴』で、カフカを思わせる暗く難解な小説だが、ソビエト共産主義の利点を描いているようにも読める。一団の人間が、あるところで「永遠に快適な生活を約束する共同住宅」の土台となる穴を掘り続けている。すべての人がいつか幸せに暮らせるようにと…。

 だがプラトーノフは、労働者、技師、農民を描きつつ、飢餓と死を浮かび上がらせる。彼らは、あらゆる善なる感情から「解放」されて、終わりなき仕事を続け、彷徨い続ける。まるでジョージ・A・ロメロのホラー映画の空虚なゾンビのようによろめきながら。

 1929~1930年に書かれた『土台穴』は、スターリン主義と抑圧的な官僚制度に対する辛辣な風刺だ。それらは、希望、信仰、そして人間性を破壊する。なるほど、プラトーノフは、プロレタリアートとともに階級闘争と社会主義を支持しているようにも見える。しかし彼は、人間的な感覚と感情や欠いた集団主義の正体を暴露しており、その点で、ジョージ・オーウェルの『1984年』を思い起こさせる。

 実は、二人の作家の運命は奇妙に重なり合っている。オーウェルは1950年に46歳の若さで、結核で亡くなった。プラトーノフは、その翌年、同じ病で死んでいる。

 プラトーノフを読むのは難行に属するかもしれない。彼の言語は晦渋で、一部の読者には難解に感じられるかもしれないが、理由あってのことだ。プラトーノフが抱いていた懸念は十分に正当化された。繰り返しになるが、ソビエト体制の下で将来、この民族の精神がどう変貌し得るかがここで扱われているのだ。

 第二次世界大戦中、プラトーノフは、赤軍の機関紙「赤い星」の特派員として働き、短編小説をいくつか発表している。しかし戦後、彼の作品は再び文壇から消えた。彼の未完の傑作『幸せなモスクワ』は、ようやく1991年に日の目を見た。

 何らかの理由で、プラトーノフ自身は逮捕、収監されることはなかった。だが、彼にとってはもっと悪いことに、彼の15歳の息子プラトーンが、虚偽の容疑で逮捕され、強制収容所(グラーグ)に送られた。少年は2年後の1940年に釈放されはしたが、グラーグで感染した結核で、43年に亡くなった。 アンドレイ・プラトーノフも息子から結核に感染。1951年に51歳で死亡した。

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