作家レフ・トルストイの生涯最後の日々:謎の家出とその前後の状況を再現する

Vladimir Chertkov/Lev Tolstoy State Museum; Russia Beyond
 82歳だった作家レフ・トルストイ(1828~1910)は、は文字通り自宅から逃げ出して、妻から身を隠し、その10日後に亡くなった。家出の前後に何が起きたか?誰が彼に付き添ったか?そしてロシアは、稀代の天才の死の知らせに対し、どのように反応したか?

 1910年11月20日、ロシアを代表する文豪の一人が亡くなった。トゥーラ市近郊のヤースナヤ・ポリャーナの屋敷から、高齢の作家が未明に不可解な家出を遂げたことは、探偵小説的な興味をも掻き立てたから、マスコミはこぞって取り上げた。そして、ロシア全体が、彼の人生最後の日々を固唾をのんで見守った。

 

「改心」と家出の試み

レフ・トルストイ、ヤースナヤ・ポリャーナにて

 模範的な家庭人であったトルストイは、長年にわたって家庭の意義を唱道してきた。愛、結婚、子供たち――これらすべてを彼は、絶え間ない精神的向上とともに、人生の意味をなすものだと考えていた。しかし1880年代、50歳を過ぎたころに彼は、その内面で徐々に行われてきた、価値観の大転換を公にする。

  作家は教会に幻滅し、彼の恋愛観と結婚観も変わる。土地・財産に対する態度も変化した。彼は、およそ私有というものを否定し、あの伝説的な農民のシャツを着て、農民といっしょに畑で働き始める。また、自分の著作権を放棄することも決意したが、これは、家庭内に大きなスキャンダルを引き起こした。

 トルストイの妻ソフィア・アンドレーエヴナは、著作権棄に強く反対した。要するにそれは、一家が主な収入源を失い、大勢の子供たちが受け継ぐべき財産がなくなることを意味したから(ヤースナヤ・ポリャーナの耕地は、収益性が低かったから、著作権放棄は、一家にとってまさに死活問題だった)。

ウラジーミル・チェルトコフとレフ・トルストイ

 トルストイのこうした意志を支えたのが、彼の崇拝者であり協力者でもあったウラジーミル・チェルトコフだ。この「高弟」は、作家の新たな哲学に無理解な家族のもとを去るように、彼を促す。

 こういうチェルトコフの言動は、ソフィア夫人を大いに苛立たせる。トルストイ家の雰囲気は険悪になり、夫妻の間で絶えず諍いが起きた。

結婚48周年を迎えたレフ・トルストイとソフィア・アンドレーエヴナ

 「彼は今日、大声で叫んだ。今、自分がいちばんやりたいことは家出だ、と」。ソフィア夫人は、1882年夏に、日記に記している。1週間後、また諍いが繰り返された。妻はトルストイを、家族の収入に対して無責任だと非難し、彼は、身の回りの物を袋に詰めて家を出た。

 「トゥーラへの途次に彼は、妻のお産が迫っているため、引き返した。翌日、夫妻の末娘アレクサンドラが生まれた」

 アンドレイ・ゾーリンは評伝『レフ・トルストイ:読書体験』に書いている。アレクサンドラは、父の秘書、献身的な同志、そして助手になる。トルストイは、著作権の一切を彼女に遺贈することとする。

 12年後、トルストイは、家出願望がまたも高まり、ソフィア夫人に別れの手紙を書いた。

 「今まで私は、お前たちから去ることができなかった。子供たちが幼いうちは、彼らから、私の影響、感化を奪うことになると思って。たとえ、わずかであろうとも、私が与え得る影響を…」。しかし、彼は家にとどまり、手紙は出さずじまいだった。

 その後、トルストイは、ノーベル賞を授与されそうだという噂が流れるや、それを断った。また、1908年に80歳の誕生日が盛大に祝われるのを防ぐために、あれこれ力を尽くした。

 

「楽園」からの逃走

レフ・トルストイとホームドクター、ドゥシャン・マコヴィツキー、ヤースナヤ・ポリャーナ、1909年

 1910年11月10日未明、トルストイはわずかな身の回りの物をもって、密かに家を出た。彼は、夜中に突然目覚めて、寝耳に水のホームドクター、マコヴィツキーだけを伴った。 朝、末娘アレクサンドラは母に、父の置き手紙を渡す。その中でトルストイは、自分は永遠に家を去ると告げていた。

 「私は、自分の年齢の老人がふつう行うことをする。世俗の暮らしを捨て、孤独と静寂の中での人生最後の日々を過ごすのだ」。トルストイは書いていた。

 ソフィア夫人は絶望した。トルストイはすでに、一度ならず失神したり、記憶が途切れたりすることがあり、心臓も悪かった。こんな家出は、死に直結するだろう…。

 トルストイと医師は汽車に乗り、まず最寄りのトゥーラ市に向かうことにした。トルストイの伝記作家、パーヴェル・バシンスキーはこう書いている。「逃走者」自身が、家出の行く先を知らなかったし、そもそも家出の目的も定かでなかった、と。

 「…彼は、それを知らなかっただけでなく、考えないように努めてさえいた」

 瞬く間にトルストイの奇怪な行動をめぐるニュースが地元マスコミに知られ、トゥーラの記者たちは、いたるところで作家を追跡し、彼に関する詳細な情報が逐次、新聞に載った。たとえば、「ベリョーフでレフ・ニコラエヴィチが食堂に立ち寄り、目玉焼きを食べた」といった些事に至るまで報じられている。

リペツク州のアスターポヴォ駅

 トルストイは、いくつかの列車を乗り換えて複雑なルートを辿り、妹マリアが住んでいたシャモールジノ修道院を訪れた。そして、このあとは南方へ、ブルガリアへ行こうと考える。だが、鉄道での移動の途中で、作家は風邪をひき、肺炎を併発する。医師は、彼を最寄りの駅で降ろすことにした。

 ソフィア夫人には電報が打たれた。「レフ・ニコラエヴィッチはアスターポヴォの駅長舎に在る。体温40度」

 

人生の終着駅「アスターポヴォ」

 現在、リペツク州にあるこの小さな鉄道駅は、「レフ・トルストイ駅」と呼ばれている。1910年、ロシア中がアスターポヴォ駅を注目していた。

 家出から数日後の11月13日、もはや重病のトルストイは駅長の官舎に連れて行かれた。これ以上適当で快適な部屋は見つからず、イワン・オゾーリン駅長は快く、自分の宿舎を提供した。作家は、しばしば意識が混濁し、呼吸困難に陥っていた。

 何人かの医者がトルストイを救おうとしたが、彼は、無益な治療で煩わせないでほしいと言い、「神の意志に委ねる」よう頼んだ。

 トルストイの病状は、国の上層部でも注視していた。帝都サンクトペテルブルクの官僚は会議を招集し、近隣の知事たち、内務省、鉄道は、地元警察とアスターポヴォ駅の職員に対し、彼の状態をできるだけ頻繁に報告せよと求めた。

 トルストイのもとに最初に駆けつけたのは、弟子のチェルトコフだ。しかし作家は、妻に会うことは固く拒み、彼女が来るのを恐れて、夜、譫言をもらした。「逃げる…逃げる…追いつく…」

 それでも、ソフィア夫人は夫のところへ行ったが、バシンスキーらが書いているように、「医師とすべての子供たちの決定で、彼女を中に入れず、トルストイには彼女の到着について知らせないことにした」。

 ソフィア夫人が夫に会うことを許されたのは、死のほんの数時間前で、このときは、彼はもう意識がなかった。彼女は、「静かに彼に近づき、額に接吻し、跪いて『許して』と言い、さらに何か口にしたが、私は聞き分けられなかった」。長男セルゲイは回想している。

葬列、アスターポヴォ

 ヤースナヤ・ポリャーナの屋敷には、トルストイに別れを告げるために、大勢の人が集まった。作家の遺言にしたがい、葬儀は正教のそれではなく、「世俗的」なものとなった。つまり、十字架や墓標なしで埋葬し、土を棺の形に盛り上げて、その上に草を載せた。

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