「ロシア様式」という言葉を聞いて最初に頭に浮かぶものは何だろうか。おそらく、ココーシニク、グジェリないしホフロマ様式の文様、彫刻の施された飾り窓などだろう。だが、この様式はいつどのようにして生まれのだろうか。また、その模様には何か意味があるのだろうか。
ロシア様式を(ほぼ)破壊したピョートル1世
ヨーロッパを見学して外交・親善のパイプを作ったピョートル1世は、祖国でロシア「固有」のあらゆるものを廃することに決めた。彼は古めかしい中世的な伝統に戦争を挑み、ルーシを精力的に一新・西欧化した。ツァーリはイタリアの建築家を招いて木造御殿の代わりに宮殿を建て、貴族には伝統的なカフタンの代わりに西洋風の衣服を着せ、長い顎鬚を剃らせ、おしろいを塗ったかつらを被せた。
彼の後継者らは、2世紀にわたって、「先進的なロシア」という思想を発展させていった。伝統的な教会建築でさえ、17世紀から18世紀には西欧のバロック様式が優勢になった。
だが、首都の貴族や公式建築がピョートルの管理下に置かれた一方、農民や民衆の工芸は命脈を保ち続けた。当局は糸車の文様の様式に介入しなかったし、全国に散在する民衆の工房で用いられる模様やモチーフも規制しなかった。とはいえ、「ロシア様式」にも改革に邁進するツァーリの影響は及んだ。ピョートルは大好きなオランダからデルフト陶器を持ち込んだが、その青と白の彩色を後にグジェリの職人らが真似ることになる。
ルーツへの回帰
もっとも、「ロシア様式」は、19世紀後半までに貴族が「ルーツ」に帰って民族的な思想とアイデンティティーの模索を始めていなければ、現代まで生き残っていなかったかもしれない。当時、プリミティブな民衆様式の要素が流行し始め、上流階級は平民の生活に興味を持ち始めた。厳しい農民の日常を描いた移動派画家が果たした役割も大きかった。
その上、19世紀から20世紀への変わり目に、「芸術世界」という芸術家団体が発足し、ロシア固有のモチーフの視覚芸術を探求して作品にする活動に取り組んだ。絵画にはロシアの民話のモチーフが頻繁に用いられるようになった。最も際立った例が、ヴィクトル・ヴァスネツォフの作品だ。
本の挿絵で最も有名になったのは、イワン・ビリービンの民話版画だった。
ココーシニクを着用したロシア美女や勇者が商売でも人気の偶像となった。例えば、包装にこうしたキャラクターの絵が描かれた。
舞台芸術も急転回を見せた。20世紀初め、興行主のセルゲイ・ディアギレフがヨーロッパで「ロシアの季節」を展開し、巡業の枠組みで展覧会やバレエ公演、オペラ公演を行った。ロシア様式の最も有名なバレエは、イーゴリ・ストラヴィンスキーの『火の鳥』で、その衣装と舞台装飾を手掛けたのは、やはり「芸術世界」に参加していたレオン・バクストだった。
ロシア様式のモチーフは内装にも現れた。タイル張りの暖炉や民衆の刺繍が流行した。宝飾工芸も遅れを取らなかった。ファベルジェなどの職人らが古代ルーシの様式で食器や宝石細工を作り始めた。
古いスタイルへの回帰ブームの象徴が、1913年のロマノフ家300周年記念式典だ。最後のロシア皇帝ニコライ2世が開催した伝説的な仮装舞踏会のドレスコードは、参加者全員がピョートル以前のルーシの衣装で来なければならないというものだった。
建築に見られるロシア様式
だが、もちろん、ロシア様式を特に反映したのは建築だった。特にこれを支えたのが、反動的で伝統的な価値観を持つ皇帝アレクサンドル3世だ。皇帝自身、ロシアのクマのようだと言われていた。それまでのエレガントな細い口髭をした皇帝らとは異なり、彼は濃い顎鬚を蓄えていたからだ。
いわゆる擬ロシア様式の色鮮やかな丸屋根とモザイクを持つ「血の上の救世主教会」をペテルブルクに建立するプロジェクトを認可したのも、他ならぬアレクサンドル3世だ。周囲の街並みと比べて全く異質で、16世紀建立のモスクワの聖ワシリー寺院を思わせるこの教会は、1883年から1907年に建設された。
「擬ロシア様式」と呼ぶことになっている建築様式は、モスクワにも数多く見られる。19世紀には、赤の広場に建築家ウラジーミル・シェルヴドが手掛けた歴史博物館の建物が現れた。クレムリンの建築群の調和を乱さないよう赤色にされ、古代ルーシの木造建築で盛んに用いられる突起、アーチ、尖塔状の屋根、M字アーチなどの装飾がふんだんに採用された。
歴史博物館の建築後間もなく、すぐ隣に似た様式の市議会(現在は1812年祖国戦争博物館)の建物が現れた。
収集家のピョートル・シチューキンは、ロシア古代博物館の建物を古代ルーシの貴族邸宅の様式で建てた。ソ連時代にはここにK・A・チミリャーゼフ記念生物学博物館が入った。
16世紀から17世紀の古い建築を模した建物も現れた。モスクワにあるスラヴ派のミハイル・ポゴジンの屋敷の装飾には、今なお木製の模様や彫刻を見ることができる。似た建物はロシア全土に見られる。
20世紀には、建築家らは奇抜な方法で擬ロシア様式と新しいモダニズムを融合させ始めた。例えば、フョードル・シェーフテリが手掛けたモスクワのヤロスラヴリ駅がこの様式で建てられている。
現代のロシア様式
さらに2000年代にも、新歴史主義というルーツ回帰の潮流が生まれ、ロシア古来のあらゆるものが礼賛された。モスクワのコロメンスコエ貴族屋敷には、古いスケッチに基づいて、ピョートル1世の父、皇帝アレクセイ・ミハイロヴィチの木造御殿が復元された。
イズマイロヴォ公園には、16世紀から17世紀のロシア建築を模倣した複合娯楽施設「イズマイロヴォ・クレムリン」が建てられた。
伝統的なロシアのモチーフは、ビジネスの対象にもなった。地方にはロシアの百姓家の様式で建てられたホテルがあったり、ロシアのバーニャ(蒸し風呂)を勧められたりする。最近では、ロシア料理を出すレストランが増え、伝統的な料理、あるいは身近な食材やレシピを使って現代風アレンジを加えた料理が提供されている。ロシア様式を採用している有名レストラン・チェーンの一つ、マリヴァンナは、モスクワだけでなくロンドンやニューヨーク、バクーにも店舗があり、「本物のロシアの精神」を体感できると約束している。
世界のファッション界のスターも、それほど有名ではないロシアのファッションデザイナーも、ロシアの民族的なモチーフを自身のコレクションに用いるようになっている。レース、パヴロフスキー・ポサドの花模様、グジェリ陶器の青と白の彩色と模様など、多くの要素が民芸品の文様や模様から取り入れられている。