詩人アンナ・アフマートワについて知っておくべき5つの事実

カルチャー
アレクサンドラ・グゼワ
 詩人アンナ・アフマートワの、愛、悲しみ、ロシア、そして世界についての透徹した詩は、女性の作品とは思えない力強さをもち、男性が大半をなす文学の世界の頂において、確固たる位置を占めている。

 アンナ・アフマートワ(1889~1966年)は、女流詩人と呼ばれるのが大嫌いで、自分は単に詩人であると言った。彼女の人格の深み、そしてその反映である詩は、読む者を驚嘆させる。

 一見、奔放な恋多き女で、多くのロマンスを体験したが、同時に彼女は信じがたいほどの精神力と断固たる性格を持ち、そのおかげで大粛清の恐るべき日々と、夫の処刑、息子の逮捕、自作の詩の発禁などを耐えることができた。

1.当代最高の画家たちのミューズだった

 アフマートワの肖像画は数多くある。彼女の華やかな容姿――ほっそりした首、物憂げな眼差し、有名な鷲鼻と前髪――を描きたい者はたくさんいたから。ナタン・アリトマン、クジマ・ペトロフ=ヴォトキン、ジナイーダ・セレブリャコワ、ユーリー・アンネンコフ…。いずれが描いた肖像画も、一種の悲哀に満ちている。

 アフマートワ自身もまた、詩の中で繊細で悲し気な貴婦人のイメージをつくりだしていた。例えば、次は最も知られた詩の一つであるが、こんな一節がある。

 

私は暗いベールの下で両手を握りしめる…

「なぜあなたは今日は蒼ざめているのか?」

――それは私が苦い悲しみで

彼を満たしてしまったから (1911年)

 

 イタリアの画家アメデオ・モディリアーニにいたっては、アフマートワの裸体画さえ残している。二人が恋愛関係にあるという噂も流れた。お互いに好意を抱いていたのは確かだが、アフマートワは、自分たちは親友にすぎないと断言した。二人が知り合ったのは、アフマートワと詩人ニコライ・グミリョフがパリで新婚旅行していたときで、その後、アフマートワとモディリアーニはしばしば会い、パリを散策した。

 しかし画家ボリス・アンレプとの間には実際にロマンスがあった。アフマートワは彼にいくつかの詩を捧げている。また彼も、ロンドンのナショナル・ギャラリーのロビーにある有名なモザイクの一つに彼女を描いている。これは「同情」と題され、モザイクの中の彼女は、戦争の惨禍に取り囲まれている。

2.KGBの前に並ぶ女性たちの姿を描いた

夫は墓の中、息子は監獄の中/ 私のことを祈って

 アフマートワは、そのもっとも名高い詩の一つ、『レクイエム』(1934~1963年)の中にこう書いている。この詩には、20世紀全体が――革命、粛清、戦争といった恐ろしい事件とともに――反映している。

 アフマートワの夫である詩人ニコライ・グミリョフは、アフマートワ同様、いわゆる「銀の時代」を代表する詩人だが、ロシア革命後の1921年に、反革命の陰謀に参加したとして、銃殺刑に処せられた。

 アフマートワとグミリョフの間に生まれた息子レフは、優れた歴史家だが、1949年、スターリン時代に、反革命宣伝を行ったと密告されて逮捕され、強制収容所に送られた。

 『レクイエム』は、KGB(ソ連の秘密警察)の入口の前で差し入れを持って並んでいる女性から、「これを書くことができますか」と問われたことがきっかけで、それについてのメモが残っている。

 酷暑の季節も厳寒の時期も、何百人もの女性が、逮捕された夫や息子について知るために、レニングラード(現サンクトペテルブルク)のKGBの入口前に立っていた。数か月間足を運んで行列に並んだ挙句、情報は伝えられない、逮捕者の居場所は教えられないと言われるのだった。特に幸運な者は、差し入れを預けることを許されたが、それがちゃんと宛先に着いたかどうかは定かでない。

 『レクイエム』は実質的に、これらの女性の恐ろしい行列への葬送の音楽だ。彼女たちは、寒さで唇が「蒼ざめ」、近親者の運命について知るために、刑吏の足元に身を投げる…。

 このほかアフマートワは、最も辛辣にスターリンを批判した詩の一つを書いている。マンデリシュタームの「私たちは生きている 祖国を足下に感じずに…」ほど有名ではないが。

アルメニア人の模倣(1931)

 

私はあなたの夢に黒い羊の姿で現れる

よたよたと干乾びた足で、

近づいてメーメー鳴き、こう喚き始める

「美味な夕食を召し上がりましたか、パシャよ?

あなたはビーズ玉のように軽々と世界を支えていらっしゃる

アッラーの聖なる意志によって守られていらっしゃる…

私の息子はお好みに合いましたか

あなたとあなたのお子たちのお好みに?」

3.詩作を禁じられる

 独ソ戦(大祖国戦争)のレニングラード包囲戦に際しては、アフマートワはレニングラード市内に留まり、防空壕を守る土嚢の袋を縫うことまでしている。詩人オリガ・ベルゴーリツと共にラジオで自作の詩を朗読し、市民を鼓舞した。(私たちの時計で勇気の時が打つ/ 勇気が私たちから失われることは決してない)。

 しかし、戦争が終わると共産党は、アフマートワは「我が国民には無縁の、空虚で無思想な詩人である」と決めつけた。当局には、「退廃的な精神と過剰な美学」が気に入らなかった。

 共産党幹部のアンドレイ・ジダーノフの断定によれば、アフマートワの詩は、民衆から乖離しており、「取るに足らぬ悩みと宗教的で神秘的なエロス」が語られているにすぎないのだった。

 その結果、アフマートワの詩はどこにも印刷されなかった。しかし、地下出版(サミズダート)に類する形で、知識人の間に広がった。人々は、それを暗記し、書き留め、友人にも暗記させた後で燃やした。「悪い」詩の原稿をただ保存することさえ危険だったからだ。

 アフマートワ自身は奇跡的に逮捕を免れた。彼女の存在の重みがものを言ったのかもしれない。

4.ブロツキーの才能を見出す

 時は流れ、1950年代。アフマートワは既に老境に入っていた。彼女の愛読者の多くが彼女と知り合いになりたがった。彼女が代表していた「銀の世代」で1950年代まで生き延びたのは、パステルナークをのぞけば彼女くらいのものだ。

 アフマートワの年下の友人たちの中で最も知られているのは、ドミトリー・ボブイシェフ、アナトリー・ナイマン、エヴゲニー・レイン、そして中でも有名なヨシフ・ブロツキーだ。

 彼らは冗談めかして自分たちを「アフマートワの孤児」と呼んでいた。アフマートワは、彼らにとって詩の権威であるのみならず、精神的支柱でもあった。だから、1966年の彼女の死は、誰にとっても悲劇だった。

 ところでブロツキーは、最初から彼女のファンだったわけではない。彼はただ、彼女に会いに行こうという申し出に乗っただけだったが、彼女の詩の一行、「わたしを川さながらに、残酷な時代は流れを変えてしまった」を見るや、彼女という人間の大きさが分かった。

 後にブロツキーはインタビューでこう述べている。「人間、状況、自然、天の無関心――こういったことすべてをいかに理解し許すべきか、私に教えてくれた人は、彼女以外に誰もいなかった」

 ブロツキーが「寄生的生活」のかどでロシア北部に流刑になったとき、アフマートワが吐いたセリフは有名だ。「うちの赤毛の坊やに大した経歴を付け加えてくれたものね」。そしてまた彼女は、ブロツキーは「私が自分で育てた」最も才能のある詩人の一人だと言った。この言葉は、ブロツキーの自尊心に大いに媚びた。

5.オックスフォード大学の名誉博士号を受ける

 アフマートワの死の1年前、75歳のときのこと。祖国ソ連では、彼女の詩は既に18年間も出版されていなかったが、彼女はイギリスに招かれ、オックスフォード大学から名誉博士号を授与された。演説ではこう述べられた。「この偉大な女性を、まことに当然なことだが、第二のサッフォーと呼ぶ人もいる」

 イギリスの新聞は、この偉大な詩人、「スターリン時代の受難者」の滞在を積極的に取り上げた。そして、彼女が国際的な評価にいかに感動したかについて書いた。