ニコライ・グミリョフ、レフ・グミリョフ、アンナ・アフマートヴァ
L.ゴロデーツキイ刊行:2017年9月
アンナ・アフマートヴァ 著
木下晴世 編訳
群像社 刊
アフマートヴァは、20世紀のロシア語詩人のなかでは、日本にも比較的紹介されてきた方だろう。1930年代に息子が粛清の対象となり、逮捕されてからの母としての苦難をうたった「レクイエム」、その生成から刊行までの経緯は特に知られている。
詩稿を不意の逮捕や家宅捜索で没収されることを恐れたアフマートヴァは、信頼できる複数の知人に手稿を見せ、暗記させた後で焼いた。それからも、折に触れて彼らが詩を忘れていないかを確かめ続けたが、「レクイエム」を文字に起こしたのはじつに20年後、ソルジェーニツィンの『イワン・デニーソヴィチの一日』が発表され、スターリン体制への逆戻りはありえないと確信した1962年のことである。「レクイエム」を記憶し続けたうちのひとり、チュコフスカヤの『アンナ・アフマートワ覚書』の一部が本書巻末の解説に引用されているが、詩人と彼女の詩業を支えた人々の思いを伝えて感動的である。
「レクイエム」生成のこうした経緯もあってか、アフマートヴァは従来、スターリン体制の不条理に対する抵抗の文学者として紹介される傾きがあった。「レクイエム」と並ぶ、本書のもう一つの柱である詩集『葦』を一読しても、確かにそのような解釈には説得力がある。
血の匂いを拭おうと「甲斐なく」手を洗うピラトとマクベス夫人のイメージが冒頭の詩で喚起される『葦』を貫いているのは、死者とその記憶のモチーフ(「青い靄を通して私が見るのは/…墓地に生えるあなたの糸杉の/永遠に凍りついた輪舞」)、夜のイメージ(「真夜中の天使が私と/夜明けまで語らっている」)、そして破滅がいつ訪れるかもしれないなかで生き、書くことの恐怖である(「ところが寵を失った詩人の部屋では/恐怖とミューズが交替で張番に立ち/夜が流れる/夜明けを知らない夜が」)。
だが詩人は打ちひしがれているだけではない。この詩集の「私」は、「そこに記された幾多の秘められた言葉」「ひと言も口にされなくなった…/部屋の鍵束」の上に身を屈め、「彼岸の野辺の客となった/竪琴の秘められた調べ」に耳を澄ます。詩神に「地獄篇の頁をダンテに授けられたのはあなたか」と尋ねられると、「私です」と答える(『ミューズ』)。死者たちの思いと言葉を甦らせ、地獄のような凄惨を伝えるのは、自分の仕事であると考えているのだ。だから「私」は、非業の死を遂げた死者たちに、「獄舎の門の中から…/復活祭の鐘のもとで/呼ばれもせず/定められもせず/この夕べの食卓にやって来い」と呼びかけることを躊躇しない(『呪い』)。
忘却の川を越えた影のような者から
世界が崩れるいまこのとき
この春の贈り物をうけ給え
(『献詩』)
ここで「贈り物」とは、ソ連期に自分自身も社会的に半ば抹殺されていたアフマートヴァが、イヴァン雷帝、ボリス・ゴドゥノフ、僭称者らの時代以来の残虐、恐怖、悪意、尊大さがなおもうごめくクレムリン(『スタンザ』)の論理に対峙しつつ、紡いだ言葉にほかならない。
アフマートヴァを抵抗の詩人と見ることに対して、たとえそれが「政治」対「文学」という古くからの二項対立の再生産だとしても、私は基本的に異議がない。ただし、この二項式が「政治」と「文学」が同じ次元で真正面から葛藤するというふうに捉えられているとすれば、少なくともアフマートヴァの場合、やや実際とは異なっていたと言わなければならない。
上記『献詩』からの引用にもあるように、アフマートヴァは、自分がソ連社会において「忘却の川を越えた影のような者」であることを自覚している。彼女が紡ぐ言葉は、「今、ここ」では無力である。言葉は現実を超えた異なる次元で響く。
このような次元の存在は、アフマートヴァと時代と文化的伝統を異にする私たち現代の日本語読者には容易に信じられないが、詩人と彼女を支えた人びとにとっては疑いようもない事実だったのである。もし言葉が紡ぎだすもう一つの次元の実在を信じているのでなければ、どうして詩人が「レクイエム」を記憶し続けることを、彼らの命を危険にさらしてまで、他の人々に求めることができただろう。
チェコ出身の作家ミラン・クンデラは、ナチス・ドイツ占領下のプラハで抵抗運動を指導し、逮捕されたユリウス・フチークが、ひそかに獄中で書いた手記を、監獄内の協力者に命をかけて持ち出させていたことに活動家のエゴイズムを指摘している。(この手記は、フチークが処刑され、しかしチェコがナチスから解放された後、『絞首台からのレポート』と題して刊行され、広く読まれた。)クンデラの理屈に従うなら、思想的にはフチークと対照的だったアフマートヴァにも、同じようなエゴイズムを指摘できることになる。
そうなのだろうか?そうではないだろう。アフマートヴァも、「レクイエム」を記憶し続けた人々も、詩の言葉を後世に伝えることの意義を疑うことはなかったのだから。
それほどの重みが込められた言葉を、系統の異なるロシア語から日本語に移し替えることは難事である。この困難は、ロシアと日本の近代における詩的伝統の相違によって、さらに増幅されている。
第一の相違は、ロシアの詩が現代に至るまでアクセントの強弱や脚韻等の音声規範を比較的保持しているのに対して、日本の近代詩が和歌や俳句から音声的規範のない口語自由詩へと飛躍したことである。もちろん現代日本の詩人の多くも言葉の選択の基準に音調を置いているが(そのことは詩人の朗読を聞けばわかる)、文字テクストから即座に理解できるような明示的な規範については、近代以降の日本語の詩はこれを放棄してきたのである。
アンナ・アフマートヴァ
モイセイ・ナペルバウム/Sputnik音が主要な構成原理である詩のジャンルで、規範性がなお保たれているロシア語を、規範が希薄な日本語に翻訳するには、両言語を熟知したうえで、一句ごとにロシア語と日本語のあいだの照応、そして日本語の訳語間の均衡をはかって、試行錯誤するよりほかにない。本書の編訳者木下晴世はこの難事に挑み、アフマートヴァの言葉を何よりもまず日本語として美しい詩句へと紡ぎなおしている。すでにその幾つかを引用したが、もう一つだけ紹介しておこう。
そうして震えてる 不思議な小鳥のように
あなたの声が私の肩で
突然の光に温められて
粉雪があたたかく銀色にひかる
(『最後の記念日を祝って…』)
ロシアと日本の近代以降の詩のあり方のもう一つの相違は、間テクスト性の有無である。詩が先行の文学作品を踏まえ、それらとの偏差から新たな美や意味を生み出すものであることについて、かつて日本もその例外ではなかったことは、本歌取りの伝統を想起するだけで理解できよう。実際、『新古今和歌集』などには、現代の私たちが、一首一首が踏まえている先行作品に関する詳細な注釈を待って、初めての広がりと深みを知ることができる歌が多い。だが近代以降の詩は、実際はともかく、詩人の内面の直接的な表出であるという建前で書かれてきた。日本の近代詩で伝統的な韻律が後景に退いたこと、物語詩や形而上学詩が発達せず、もっぱら一人称的な抒情詩が主流となってきたことの理由も、この辺に求められよう。
一方、ロシアの詩には、現代に至るまで、先行の作品やモチーフを踏まえつつ、新たな意味を獲得しようとする間テクスト性への傾きが認められる。アフマートヴァがその傾向の顕著な詩人だったことは、『葦』ひとつ取ってみても明らかだろう。1930年代の粛清はマクベス夫人やピラトに重ね合わされ、それを言葉で超克しようとする試みはダンテの地獄篇に擬されている。
このようなアフマートヴァの詩は、しばしば詩句の背後にある伝統や、ときには詩人自身の人生に起きた出来事を知ることなしには、十全に理解できない。本書では、このことへの配慮から、訳注のかたちで、ほとんど一つ一つの詩に必要な情報が与えられている。たとえば詩『最後の記念日を祝って…』が当初、詩人が一時求婚されていた病理学者のガルシンに宛てて書かれたが、その後、アヴァンギャルド芸術に伴走した批評家プーニンに捧げられたことが指摘されている。
この注を読んだ直後から、『最後の記念日を祝って…』の言葉は、読者の脳裏でソ連前期の文化史の文脈とつながり、新たな広がりを得、より微妙で重層的な陰影を帯び始める。本書は、異なる二つの文化体系のはざまで編訳者によって行われた、それ自体すぐれて文学的な営為の賜物でもある。
(中村唯史・京都大学教授)
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