自分を万人にとっての道徳的模範だと思い込んでいる人物を指すときに。
これは大詩人アレクサンドル・プーシキンの韻文小説『エフゲニー・オネーギン』の冒頭で、19世紀以来、広く引用されてきた。
「私の叔父は謹厳実直な人物だった // 重い病に臥せると // 自分を尊敬するよう強いた //それ以上のことを考えつくことはできなかったのだ //彼の例は他の人への教訓だ」
この作品は、「究極のロシア小説」と考えられてきた。『エフゲニー・オネーギン』は、名文句、箴言の宝庫であり、今も日常会話に用いられる。
ロシア人がいい加減うんざりして、もうたくさんだ!というとき。
ミハイル・レールモントフの詩「詩人の死」は、詩人アレクサンドル・プーシキンが決闘で死んだ後で書かれた。この詩では、プーシキンを誹謗中傷し嫉妬した者たちが非難されている。そして、「数々のちっぽけな侮りによる恥辱」が詩人を、こんな世俗のから騒ぎと戦うために決闘に追いやった。その結果、詩人が非業の死を遂げた、と書かれている。
この詩は、ソ連時代の初期から学校のカリキュラムに含まれているので、すべてのロシア人が知っている。
拙速に計画を立てたり、準備に十分な注意を払っていない人をからかうときに。
デニス・フォンヴィージンの戯曲『親がかり』は、ロシアの傑作戯曲で、今でも学校ではこれを用いて、教育と成長の何たるかについて教えている。とくにこの引用箇所は、教師が生徒の怠慢を叱るのによく引き合いに出されるので、広く知られている。
芸術は、時を超え、権力に打ち克つという信念を表すために、あるいは時には、真実は何があろうと勝利するという意見を示すために。
ミハイル・ブルガーコフ『巨匠とマルガリータ』で、悪魔のヴォランドがこの言葉を口にする。ヴォランドが「巨匠」に小説の原稿を見せてくれというと、巨匠は暖炉で燃やしてしまったと言う。「原稿は決して燃えない!」とヴォランドが答えると、黒猫ベゲモートの尻の下から、復活した原稿が現れる。ロシアで最も読まれている小説の一つ、『巨匠とマルガリータ』からのこの引用は、やがて箴言に変わった。
人が、長い間やるのを恐れてきたこと、あるいは躊躇してきたことをようやく実行しようとするとき。
『罪と罰』の主人公ロジオン・ラスコーリニコフは、金貸しの老婆の殺害を自分に正当化して見せようとして、この言葉を発する。この老婆は、ラスコーリニコフいわく、債務者からお金と命を吸い取っている「シラミ、要するに嫌らしい有害無益な生物」にすぎない。
ロシアで最も有名な諺の一つ。その意味は、英語の「勉強ばかりして遊ばないと子供は愚かになってしまう」(“All work and no play makes Jack a dull boy”)に似ている。要するに、仕事だけでなく、遊びの時間もあるべきだ、というのだ。しかしこの諺は、ロシア人でさえ誤解しがちだ(下記参照)。
これは、17世紀ロシアのツァーリ、アレクセイ・ミハイロヴィチ(ピョートル大帝の父)によって書かれた鷹狩りの指南書からの引用だ。17世紀のロシア語では、「час」は「1時間」と「時間」の両方を意味する。だから、アレクセイ帝は、人間の暮らしには仕事の時間も、楽しみの時間もあるべきだと言ったのである(明らかにツァーリは、鷹狩りへの情熱も表白している)。
ところが現代のロシア語では、この引用句は、ビジネスには時間を十分かけるべきだが、楽しみにはたった1時間しか割いてはいけない、というふうに聞こえる。が、これは間違った解釈だ。この文句は、17世紀以来非常に広まっているので、ほとんどのロシア人が諺だと思っている。
ある人が、もういい加減な歳で、何か障害があるのに、勇敢で元気で、行動する用意があるときに。決意と意気込みを表すのに使われる。
これは、人々を最も奮い立たせてきた引用句の一つで、箴言として扱われている。元々は、老いたるコサック、タラス・ブーリバが仲間たちに向かって、戦う覚悟があるか問い質したときの言葉だ。これに仲間たちはこう答える。「火薬箱にはまだ火薬がある!コサック軍はまだへこたれちゃいない。コサックは負けない!」 。この後、激しい戦いが始まる…。この引用句は確かに、多くのロシア人が好む「がんばるぞ!戦うぞ!」という気分をもっている。
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