フョードル・チュッチェフの肖像画、S. アレクサンドルフスキイ=トレチヤコフ美術館
これは、詩人フョードル・チュッチェフの言葉。彼が1866年に書いた4行詩の1行目だ。
ロシアは頭ではわからぬ
並みの尺度では測れぬ
ロシアならではの特質がある
ロシアは信じることができるのみ
このチュッチェフの詩の1行目は、ロシアの非合理的な文化、文明を語ろうという場合には、いつでも引き合いに出されるようになった。ところが時とともに、ロシア人またはロシアの、予想外な行為なら何でも、その評価に関係なく、「ロシアは頭ではわからぬ」が引かれるようになる。
例えば、1939年にチャーチルは、ラジオでこう語った。「私はロシアの行為を予言しようなどとは思わない。それは、“秘密”で包んである謎で、その包みのなかには、パズルがいくつも入っているのだから」
『オルド』、2012年=Kinopoisk.ru
今日では、この表現はふつう、ロシア人には様々な民族の血が混ざっている、と言いたいときに用いられる。その作者については諸説あるが、いずれにしても、19世紀にフランスから入ってきたのは確か。
ドストエフスキーはこう書いている。「ヨーロッパ人ときたら、我々がどんな犠牲を払っても、どんな場合でも、決して我々ロシア人を仲間とはみなしてこなかった。いまだに“Grattezlе russе еt vouzvеrrеzlе tartаrе”というわけだ。我々は彼らの諺になってしまった」
フランス人の誰が最初にこれを言い出したのかは不明だが、例えば、外交官で作家のアストルフ・ド・キュスティーヌは、自著『1839年のロシア』にこう書いている。「ロシア人の気質は残酷だ――いくらこの半野蛮人たちが、これに文句を言ってもだ。そして、今後も長い間、そうであり続けるだろう。なにしろ、彼らが本物のタタールだった頃から、数百年も経っていないのだ。…そういう文明から成り上がった者たちの多くが、現在の、見た目の洗練の背後に、“熊の毛皮”を保ち続けている。というか、彼らは、その熊の毛皮をひっくり返して着ただけだから、ちょいとそれを引っ掻けば、地の毛皮が出てきて、その毛が逆立つというわけなのだ」
アレクサンドル3世
この箴言を最初に口にしたのは、皇帝アレクサンドル3世だとされている。ツァーリは自分の大臣たちにこう言うのを好んだ。「わがロシアには、全世界に2人の忠実な同盟者しかいない。我が陸軍と海軍だけだ。他の連中はみな、ちょっと何かあると、我々に敵対して団結する」
この言葉は、このツァーリの思考の全般的特徴を反映している。彼は、ヨーロッパに対しては常に疑り深かった。
パンフィーロフ師団の28人の英雄たちの記念碑=ウラジーミル・セルゲエフ/ロシア通信
この名言を吐いたのは、政治委員、ワシリー・クロチコフだとされている。彼は、1941年11月にパンフィーロフ師団を率いていた。凄惨な戦いの末、部隊の28人全員が戦死したが、敵の戦車14両を破壊した。赤軍の機関紙「赤い星」の記事により、パンフィーロフ師団の戦功は、広く知られることになった。
詩人ニコライ・チーホノフは1942年に、詩「28人の親衛隊員の戦記」を書いたが、この詩のなかで、クロチコフの言葉が、詩の形で何度となく繰り返される。
ロシアは巨大だ
だが退却はできぬ
我々の背後にはモスクワがある!…
後に判明したところでは、この言葉は「赤い星」の編集者が考え付いたものだったのだが、そのときは既に、人口に膾炙していた。
「トロイカで赤の広場へ。古代ルーシ」、 アレクサンドル・ソコロフ画、 1960年=セルゲイ・ピャタコフ/ロシア通信
この、おそらくは最も人気ある金言の作者は誰なのか?それについての議論はずいぶん前から続いているが、作家ニコライ・ゴーゴリの名が挙がることが多い。
初めてこのアフォリズムが登場したのは、ペレストロイカ期のことで、風刺作家ミハイル・ザドルノフの一人漫才においてだった。
「ニコライ・ワシーリエヴィチ・ゴーゴリはこう書いてます。『ロシアには二つの災難がある。悪路と馬鹿だ』。というわけで、我々は今日まで常に変わらないという、羨むべき安定を保っていることになりますね」
もしかすると、ザドルノフは検閲に引っかからないようにするために、ゴーゴリの引用という形をとる必要があったのかも。
*「アルザマス」誌のロシア語の記事を抄訳
制作者はスタニスラフ・クヴァルディン
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