1.ミハイル・レールモントフ
過小評価されている理由:散文作家としてのレールモントフを知る人はあまり多くない
誰に読ませたい?:ロシア軍将校の苦い流刑生活を覗いてみたい人に
ほとんどの読者にとって、ミハイル・レールモントフ(1814~1841)は、主にロシアの詩人として知られている。彼が、ロシア最初の本格的なリアリズム小説の一つ、『現代の英雄』を書いたことを知る人は少ない。その筋は、クエンティン・タランティーノの映画よりも骨太で、一筋縄ではいかない。
後に、ロシア帝国最後の本格的改革者ピョートル・ストルイピンを生むことになる一族の一員であり、当時最も影響力のある名門に属し、ロマノフ家との血縁関係を誇っていた。23歳の時、彼は近衛連隊に入ったが、その3年後に、詩「詩人の死」を書いたために、カフカスに追放された。これは、詩人アレクサンドル・プーシキンの非業の死に捧げられたもので、政府とツァーリへの批判を含んでいた。
追放先から戻ったと思ったら、決闘を行ったせいでまたも追放された。レールモントフのカフカス体験は、彼に『現代の英雄』のための資料をもたらした。この小説はかなりの部分が自伝的だ。
辛辣で皮肉でポーカーフェースの主人公、ペチョーリンは、ロシア文学の初のダンディーなキャラクターの一人だ。その慇懃さと勇敢さがあいまって、理想的な貴族に見える。彼は死を軽蔑し、周囲の俗物から一線を画している。
この小説の主な特長は、この時代では画期的だった、単線的でない構成だ。5つの物語から成るのだが、それらは互いに絡み合い、時間的にあちこちにシフトする。
2. ミハイル・サルトィコフ=シチェドリン
過小評価されている理由: 難解な大作で主題が極めて暗い
誰に読ませたい?:ロシアの真のホラーを恐れない人
ミハイル・サルトィコフ(二重姓の二つ目のシチェドリンは、ペンネームだ)は、彼の母国ロシアのあらゆる不安と病弊を具現している。
才能あふれるミハイル・サルトィコフ=シチェドリン(1826~1889)は、古い家柄の貴族の家に生まれた。官吏として勤めるかたわら、短編小説を書いた。しかし、1848年のフランス革命(2月革命)の後、地方都市ヴャトカに左遷された。小説『もつれた事件』を発表したことが当局ににらまれたためだ。ヴャトカで彼は、ロシアの生活のあらゆる奇怪な面を目の当たりにして、その主要な表現者となった。
サルトィコフの穏やかでゆったりとした語り口は、血まみれの物語を語るには適切なツールとなっている。代表作『ゴロヴリョフの人々』で我々は、地主の一見すると陽気な家族がゆっくりとその地獄のような性格を暴露していくのを見る。モスクワの財産を蕩尽した長男をアル中、そして狂死に追い込む女地主。その顛末をほくそえんで見守り、財産を狙っている次男…。
映画監督ラース・フォン・トリアーは、この小説にインスパイされて『ドッグヴィル』を撮ったのではないかと思われる。サルトィコフ自身も、陰鬱で辛辣な男だったが、適度にブラックなユーモアで、こうした厄介極まる状況を描き出すことができた。それは、ロシアの不条理の深淵の中に、読者を宙づりにするだろう。
3. ガイト・ガズダノフ
過小評価されている理由: 主だった賞はもらえず、ブーニンやナボコフなど他の亡命作家の陰に隠れてしまった
誰に読ませたい?: フィルムノワール(暗黒映画)、アルベール・カミュ、パリのナイトライフを愛する人に
ガイト・ガズダノフ(1903~1971)は、オセチアの恵まれた家庭に育ったが、ロシアで過ごした歳月は長くなかった。17歳のときに、革命のためにロシアから逃れた。1923年にパリに移住し、移民の苦難をなめた。荷役作業をやり、列車を修理し、シトロエンの工場で金属加工に従事。その間に彼は、ソルボンヌで文学を学んだ。1928年には、タクシードライバーとして働き始めたが、それが彼に小説の材料を与えた。彼は1952年までこの仕事を続けている。
彼の最も注目すべき小説『夜の道』(1941年)は、ブーニンやナボコフの散文よりもロシア人亡命者の実生活をはるかによく捉えている。裕福でもあり尊敬もされていた、この二人の作家は、一種の「エリュシオン」として、すなわち古きロシアの失われた時代に思いをはせる時と場所として、亡命生活を見ていた。
逆に、ガズダノフは、貧しい人間の視点からそれを語った。多くを失い、幻滅だらけで、生き延びるためにあがいている彼のキャラクターは、革命後に逃れたロシア人の大半の暮らしがどのようなものだったか、垣間見せることができる。
ガズダノフは、1940年代後半になってようやく、自分の作品のおかげで、落ち着いた生活ができるようになった。亡くなるまでラジオ局で働き、ロシア文学についての放送を制作していた。
4.イワン・ブーニン
過小評価されている理由:ロシアをテーマにした微妙な表現が多く、外国人には分かりにくい
誰に読ませたい?:はるか昔に失われたロシアのロマンティシズムに憧れる人に
イワン・ブーニン(1870~1953)も、ロシア人亡命作家で、ノーベル文学賞を受賞している(1933)。彼は、ロシア帝国の崩壊を貴族がどう見たかを描き出した。中程度の貴族の家に生まれ、早い時期から文学活動を始め、その後ジャーナリストとして数年間働いた。その経験のおかげもあり、彼の言語は極めて精緻だ。革命のせいで、ブーニンはロシアからの亡命を余儀なくされた。彼は、ボリシェヴィキの体制には合わなかっただろうし、合わせるつもりもなかったろう。それは彼にとって忌まわしいものだった。
フランスに居を定め、そこで彼は、古きロシアを想い起こし、悲しみに満ち満ちた小説を生み出すことができた。『アルセーニエフの生涯』だ。モダニストによる教養小説という稀な例である。この小説はノーベル文学賞をもたらした。その後、彼は短編集『暗い並木道』を書いた。その完成度において優に、ジェイムズ・ジョイスの『ダヴリン市民』に比肩する。これは、ロシアの現実をロマンティックかつノスタルジックなすがたで描いている。
5.ヴァルラーム・シャラーモフ
過小評価されている理由:強制収容所を描いた作家としてソルジェニーツィンの陰に隠れている
誰に読ませたい?:ソ連の強制収容所でふつうの人間がいかに死んだか(あるいは、それより稀なことだったが、いかに生き残ったか)を知りたい人に
ソ連の強制収容所(グラーグ)で過ごす羽目となり、しかもそれについて書いたロシア作家だ。そう、そういう作家はソルジェニーツィンだけでない。ヴァルラーム・シャラーモフ(1907~1982)は、最晩年を身障者の施設や養老院で終えた(彼の好きな作家ギュスターヴ・フローベールと同じく隠棲しつつ最後まで創作した)。
シャラーモフは、強制収容所で約20年間を過ごしている。彼は、反ソ宣伝のかどで、3つの刑期を務める羽目となった。ソ連の粛清のメカニズムは、彼を圧殺しようとしたが、できなかった。
シャラーモフは、ロシア北部で最初の刑期を務めた後、コルィマの金鉱山で働いた。その過酷な条件ゆえに多数の囚人が死亡している。1956年、シャラーモフはようやくモスクワに戻った。彼は、収容所で送った時期について、いかなる犠牲を払おうとも書くことを固く決意した。
多くの人が彼を単に「グラーグ作家」とみなしているが、シャラーモフはこう言っている。「私は、サン=テグジュペリが空について、メルヴィルが海について書いているように、収容所について書く。私の話は、群衆の中でいかに行動すべきか、助言を与えるものだ…」
彼の代表作は、連作短編『コルィマ物語』だ。この作品でシャラーモフは、読者を容赦しない。彼は描き出す。労働で死に至るか、さもなくば凍死するか、他に選択肢はないことを。囚人の奴隷労働からひと財産つくる看守のことを。黙々と働く無名の囚人たちの全能の統治者となった収容所の役人のことを。
シャラーモフは、登場人物たちの本名を隠さない。あくなき告発者として彼は、自分の話を永遠に読み継いでほしいと願っていた。もし彼が書かなければ、永遠に忘れ去られたであろう生命たちのことを思い出しながら、読者に読み継いでほしいと。