ミハイル・レールモントフ氏 // AFP/East News
自分の先祖は「みすぼらしかった」とよく不平を漏らしたアレクサンドル・プーシキンと同様に、レールモントフは、貴族の間で自分の家名が低い地位にあったことに不満を感じた。この若き詩人は、モスクワとサンクトペテルブルクの宮廷貴族社会に属する、彼よりも富裕で高い階級の人々から見下されていたため、彼は少なくとも自分の過去に「偉大さ」の一片を見つけようとした。
彼の父、ユーリ・レールモントフは家系についてはあまり知らなかったが、彼らがはるか昔のスペインのレルマ公爵家の家系であることは言い伝えられていた。その伝説はミハイルに刺激を与え、彼は『悪魔』という詩作の初期バージョンの背景としてスペインを選んだ。
しかしレールモントフは、自分の祖先が17世紀にロシア軍に仕えたスコットランド系のレアモンス家の一員であることを1830年頃に知った。彼は自分が伝説的なスコットランド人レアード(地主)で、「韻文詩人のトーマス」として知られていた詩人のトーマス・レアモンスと血がつながっていることを想像できたので、これを喜んだ。実際にそれ以降、ハイランド北部のイメージや古代吟唱詩人が彼の詩に支配的な影響力をもつようになった。
祖母により一人っ子として育てられたレールモントフは非常に甘やかされて育ったが、それは彼の鋭い舌と高い教育水準とうまく合う組み合わせではなかった。レールモントフは教授と口論したあげく、モスクワ大学を退学することを余儀なくされた。文献学の試験中に、彼は教授よりも多くのことを知っていると答えたのだ。その後、サンクトペテルブルクのニコライ騎兵学校では、遊びでライフルの清掃棒を曲げて結び目をつけたことから、彼は衛兵詰所に拘留された。
同校での別のエピソードでは、彼は他の士官候補生に自分の乗馬能力を誇示するために若い馬を調教しようと試みたが、馬は彼を振り落とし、足を骨折させたという。それはレールモントフの過度な虚栄心のためだった。その結果、この詩人は終生、足を引きずって歩かねばならなくなった。最も親しい友人さえもを標的とする手厳しいジョーク、たちの悪い風刺や機知に富んだ短い風刺詩により、レールモントフは意地の悪い辛辣な人物としての“名声”を獲得した。
彼は文献学を学んだが、モスクワ大学を退学すると軍に入隊し、サンクトペテルブルクのニコライ騎兵学校に入学した。これはロシア帝国近衛軍の騎兵を養成するための外部に閉鎖された施設だった。この学校では、士官候補生がフィクションを読むことは許されていなかったので、彼らは、誰でも自作の散文や詩を発表できる手書きの雑誌を密かに作っていた。この雑誌の内容は概して軽薄なものだった。多くの士官候補生はエロティックでスキャンダラスな詩を書き、レールモントフも自身の詩的才能を駆使して、表現を拘束されない優れた詩を創作した。彼らの人気は騎兵学校を越えてサンクトペテルブルクの全体にも広まった。この都市の多くの住民は彼の勝手気ままな「学生くさい詩作」の気質を覚えていたため、後にレールモントフが「深刻な」詩を発表し始めると、彼らはこれを軽蔑した。
レールモントフの同時代の人々の多くが、この詩人はあまりハンサムとは呼べなかったと述べている。子どもの頃の彼は虚弱で、リンパ節炎(瘰癧)にかかっていた。そのため、成人しても、彼の目は赤みを帯びていた。レールモントフはあまり背が高くなかった。彼の頭は大きく、鼻は上を向き、足を引きずって歩き、さらには脊柱後弯症(円背)でもあり、これは仲間の士官候補生がよく指摘することでもあった。
彼の身体的特徴は、彼の友人や、彼が良い印象を与えようとした若い女の子たちによって嘲笑された。レールモントフ自身が高慢な態度をとり、乱雑であったため、それは自業自得であったとも言える。時には、彼の友人が彼を着替えさせるためにシャツを引き裂かなければならないことさえあった。それにもかかわらず、レールモントフは歳を重ねるにつれ、見事な博学、想像的思考と雄弁により女性の心を勝ちとる方法を学んだ。レールモントフの詩的名声と戦場での勇敢な活躍ぶりの噂は、彼のロマンチックなイメージを増長させ、彼は多くの女性の恋心を動揺させる女たらしになった。
レールモントフの両親は破滅的な家庭生活を送っていた。彼の父ユーリは浮気をし、妻マリアと数多くの口論をしたが、あるときその最中に彼女に暴力を振るったと伝えられている。これが病気につながり、その結果彼女は病死してしまった。
マリアの母、エリザヴェータ・アルセーニエワ(出生時の名前はストリピナ)は、非常に裕福で影響力のある女性で、ユーリと絶交し、自分で孫を育てることにした。彼女は二人が限定的な接触しか持たないようにし、若きレールモントフが父親と住むために彼女の元を離れた場合は、遺産を相続させないと脅した。レールモントフはアルセーニエワと一緒に住む方を選んだが、自分の父親と親しい仲になることが全くなかったにもかかわらず、父親が1831年に貧困状態で死ぬと、深く意気消沈した。
こうした葛藤があったにもかかわらず、レールモントフは祖母を愛し、彼女の言うことに従った。彼女は宮廷で自分が持つ幅広いコネを利用し、彼の人生を通じて経済的に彼を助け、保護し通した。例えば、最初にカフカースに追放される前に彼が戦場の前線に配属されずに済んだのは、彼女の介入のおかげであった。
しかし運命の意外な展開により、レールモントフを間接的に死に至らしめたのは、彼の祖母が原因だった。1841年の冬、彼のサンクトペテルブルクでの最後の滞在中、レールモントフは文学に身を捧げるために軍隊から退役しようとしたが、彼の祖母は、彼がカフカースの連隊に戻るべきだと主張した。そのための移動途中に彼はピャチゴルスクに滞在し、そこで決闘をして死亡した。エリザヴェータ・アルセーニエワは、自分の娘と孫よりも長生きした。彼女はレールモントフの死後4年が経過した72歳のときに亡くなった。
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