評価されすぎ?のロシア5大作家:たまには思い切りけなしてみようか

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 ひょっとしてあなたは、トルストイのお説教臭さに、ドストエフスキーの長広舌に、あるいはブルガーコフの野卑なイメージにいい加減うんざりしてはいないだろうか?そう、あなたは正しい。これらの文豪たちは過大評価されているのかもしれない…。

1.レフ・トルストイ

 レフ・トルストイはしばしば、ロシアの最も偉大な作家と呼ばれるが、ロシア人の皆が皆、彼を好きなわけじゃない。学校では、我々ロシア人のほとんどが、あのまさに膨大な4『戦争と平和』を読むことを強いられた。だいたいトルストイ本人にしてからが、ときには、この自作が気に食わなくなったこともあったようだ。

 トルストイはこう白状したことがある。「もうこんな冗漫なたわ言を二度と書かずにすむ」ので幸いだと。そして、この小説を褒められたとき、彼はこう答えたものだ。「エジソンに向かって、あなたはマズルカをすごく上手に踊りますね、と言うのと同じだよ」

 『戦争と平和』の文章の多くは、前後の脈絡が分かりにくいので、終わりに近づくころには忘れてしまう。おまけに、文中にはやたらとフランス語が出てきて、そのロシア語訳の膨大な脚注が付いている。これを読むのは悲惨極まる。そして4巻すべてが、モラル、お説教、子供じみた歴史理論に満ち満ちているのだ。

 そもそもトルストイのモラルは、彼自身が送った生活と真っ向から矛盾する…。若いころは、どうにも止まらぬギャンブル狂で、生涯大変な女好きだった(彼はそのために自己嫌悪におちいったが)。 彼の子供のほとんどが、(著作権放棄などで)財産を自分たちから奪おうとしたというので、父親に対し怒っていた。妻ソフィアとの関係も、喧嘩や涙が絶えなかったし、結婚前の愛人が夫婦関係に影を落としていた。

 こういう人間が果たして他人に倫理を云々する資格があるだろうか?ところで、トルストイのほとんどの小説にはモラリスティックな結末がついている。

2.フョードル・ドストエフスキー

 フョードル・ドストエフスキーは生前は、犯罪ネタ(『罪と罰』)や、感傷的な通俗小説(『カラマーゾフの兄弟』)を書いたB級作家とみなされていた。

 それにはもっともな理由がなくはなかった。ドストエフスキーは、生活に追われ、しかもトランプ賭博やルーレットでしこたま借金をこさえたので、その支払いに印税の大部分を当てていた。それが、彼の仕事の大部分が、控えめに言っても、急いで(つまり十分な推敲がなされずに)書かれた理由だ。

 例えば、『罪と罰』の最初のほうで、主人公ラスコーリニコフが金貸しの老婆の家に下見に行く場面では、「楕円形の丸いテーブル」と書いている。楕円形だが円形とは?!(この行は、すべての英語の翻訳では慎重に編集されている)

 編集者ミハイル・カトコフは、作家の注意をこのミスに向けた。ドストエフスキーはしばし考えて言った。「そのままにしておいてください」

 この辺のことは、ドストエフスキーの19世紀の翻訳者たちのほうがよく承知していた。たとえば、作家のキリスト教哲学と人生観全般を語る散文詩「大審問官」は、たいてい「余計なもの」として、小説から削除された。

 そして、『白痴』の主人公、ムイシュキン公爵の際限なき饒舌。実は、ドストエフスキーの小説は文芸誌に掲載されたので、こんなに長いのだ。あなたはそれを知っても別に驚きはしまい。文芸誌の原稿料は、行数によって払われたので、長ければ長いほど、稿料も多いというわけ。

 それに、いずれにせよドストエフスキー自身が手書きで書いたわけではない。彼は、プロの速記者で妻のアンナ・ドストエフスカヤに口述筆記させたのだから。しかしこうしたことも、ギャンブル狂の夫が、賭博でつくった借金を払うために、結婚指輪や妻の婚礼衣装を質に入れる妨げにはならなかった。

3.ミハイル・ブルガーコフ

 生前、ミハイル・ブルガーコフは、ロシアの一流作家とは目されていなかった。もともと医学部に学んだ彼は、医師として働いていた。1917年にロシアの地方で医師として働いていたとき、偶然の成り行きで彼はモルヒネ中毒になった。ジフテリアの薬のアレルギーを緩和するためにモルヒネを用い始めたのだが、服用が頻繁になり、ついに中毒になってしまったのである。彼の創作活動は、中毒になるのとほぼ時を同じくして始まった。ロシア革命後の内戦の時期のことだ(1918 1921)。

 彼の作品の大半は、短編や戯曲で、彼が初めて名声を得たのは、独裁者スターリンがブルガーコフの戯曲『トゥルビン家の日々』を気に入ったときのこと。最初の上演は1926年だった。しかし1930年代に入ると、ブルガーコフは苦境におちいる。彼は、スターリンの青年時代を描いた戯曲を書いて独裁者のご機嫌を取ろうとしたが、スターリンは気に入らず、上演取りやめを命じた。その後、ブルガーコフの健康は急速に悪化し、1940年に48歳の若さで亡くなった。

 1930年代、ブルガーコフは密かに、代表作『巨匠とマルガリータ』を書いていたが、この時期もモルヒネを乱用していた。その染みがこの小説の原稿についているのが、数十年後に発見された

 『巨匠とマルガリータ』が有名になったのは、作家の死後何年も経ってからで、彼の他の作品はこれの陰に隠れてしまった。世界の読者のほとんどは、例えば、短編小説『モルヒネ(若き医師の手記)』(病気になってモルヒネを注射した後に、深刻な依存症になった、地方病院の若い医師の話)、あるいは、『犬の心臓』(ソ連国家初期の政治と遺伝学が絡み合った話)などは、もうあまり覚えていまい。

  一方、『巨匠とマルガリータ』は長年賞賛されてきたものの、筋は月並みだ。明らかに作家の譫妄状態に触発された、陳腐な「神秘的」イメージに大きく依存している。この小説におけるイメージは、ドイツの表現主義文学、とくにブルガーコフが好んだ作家の一人、グスタフ・マイリンクの小説に多くを負っている。

4.セルゲイ・ドヴラートフ

 ロシア・ソ連の作家の多くは、ソ連の現実の不条理を暴く、深いアイロニーのせいで、ソ連では出版されなかった。セルゲイ・ドヴラートフはその一人だ。彼はアメリカに亡命した後で、より有名になった。 名声は急速に広がり、2000年代の終わりには、1970年代の最も高名な作家の一人になった。もっとも1970年代当時にはそうではなかったのだが。

 まず第一に言っておかねばならないのは、ドヴラートフが書いたのは必ずしもフィクションではなかったことだ。彼の短編小説は、むしろスケッチと言うべきである。それは自分の日々の生活から抜き出したエピソードをちょっと変えて、苦いユーモアで味付けしたもの。あるいは、敗者の過去と現在の悲しい回想だ。

 しかしながら20世紀ロシア文学では、こうした方面でははるかに優れた成果がある。ミハイル・ゾーシチェンコをはじめとする一連の作家たちだ。ゾーシチェンコが書いたスケッチは、そのユーモアと周到な構成で、ロシアで非常な人気を博した。

 ドヴラートフの文章が面白いのは何よりも、彼が再現した、この時代の庶民の言葉だ。だから、翻訳してしまうと、その味わいは失われるか、少なくともずっと詰まらなくなってしまう。

 しかし実は、ロシア語原文でも、彼の文章はもはや古びつつある。彼が描いた現実がもはや存在しないからだ。だから、ドヴラートフは、そのスタイルを好む人には良いけれども、ロシア文学を代表する作家とはどうも思えない。

5.ヨシフ・ブロツキー

 20世紀後半のロシア語の発展に貢献したというノーベル文学賞受賞者、詩人ヨシフ・ブロツキー(19401996)。彼は、今日にいたるまで非常な賞賛を受けている。アメリカの桂冠詩人(19911992)にも選ばれているが、しかしこれは、彼の母国語ではなく英語を話す国でのことだ。

 結局のところ彼は、あまり英語を使いこなすことはできなかった。自分の作品を英語に翻訳し、散文や詩を英語で書いているが、そのシンタックスはロシア語風だ。

 後に、「アメリカ人」詩人のJoseph Brodskyは、叙情的な詩から離れて、詩を絡み合った間テクストと曖昧な引喩(アリュージョン)に変えた。ブロツキーはアメリカ詩人をもって任じ、名前の綴りを、ロシア語風のIosifからJoseph に変えさえした。

 そうした作品の例としては、例えば、「ウェルトゥムヌス」や「ケンタウロスI-IV」を見てほしい。ブロツキー自身よりも世界文学を知らない読者にとっては、解読が難しい。どの読者もこうした問題にぶつかるのだ!

 詩は文学史の講義ではないのに、ブロツキーは「間テクスト性」ばかり考えて、大いにそれを広めようとした。だから我々は皆、彼の初期の、誠実で心のこもった詩を愛する。後年のくたびれた、世界的、叙情的ペルソナよりも愛するのだ。

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