ソルジェニーツィンが生誕100年:彼の生涯と創作を記憶すべき5つの理由

カルチャー
ゲオルギー・マナエフ
 2018年12月11日、作家アレクサンドル・ソルジェニーツィンの生誕100年を迎えた。ロシアとその歴史を理解するためには、彼の作品と生涯について知ることが重要だ。それはなぜだろうか?

 

1. 彼は当初、ソ連政府を共産主義イデオロギーの熱心な支持者として批判した

 ソルジェニーツィンが初めて逮捕されたのは1945年のことだった。当時彼は、召集を受けてソ連軍にいたが、前線から友人に書いた手紙が、逮捕の理由だった。この頃のソルジェニーツィンは、レーニンの思想を熱心に支持しており、社会主義イデオロギーを裏切ったとしてスターリンを批判した。

 だから、ソルジェニーツィンがソ連政府の政策を批判したときは、彼は、自分が何を語っているのかはっきり意識しており、持論を吐いたのだった。だからこそ、彼は危険だとみなされ、労働収容所での懲役8年の判決を受けた。

2. 彼はソ連の労働収容所で生き残り、それについて書く危険を冒した

 彼は、刑期の最初の1年間は、モスクワの建設現場での強制労働に従事する。次いで、通称「シャラシュカ」、すなわち内務省国家保安局特殊研究所で、2年間働いた。

 ソルジェニーツィンは数学者だったので、他の政治犯とともに科学研究を行った。しかし、警備員の言うことを聞かなかったというので、カザフスタン北部の労働収容所(グラーグ)に移され、そこで、グラーグでの残酷極まる扱いをいくつか目の当たりにした。

 この経験により、ソルジェニーツィンは後に、ソ連の労働収容所における恐るべき劣悪な状態をを描き出すことができ、結局、世界に伝えることになる。スターリンが死んだ1953年、彼は8年の刑期を終えたが、釈放されることはなく、カザフスタン流刑となった。

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3. KGBはこの危険人物の暗殺を試みた

 スターリンの個人崇拝が批判された後、ソルジェニーツィンへの告発は撤回され、彼は中央ロシアに戻った。1957年に名誉回復され、教師として勤めるかたわら、密かに文筆活動を続けた。

 労働収容所についての彼の作品――とりわけ『イワン・デニーソヴィチの一日』――が雑誌に掲載され、ソ連と西側で大反響を巻き起こした。この作品は、国家賞「レーニン賞」の文学部門の候補にもなる。

 これに劣らずソ連政権に批判的な、他の物語が出版されると、ソ連の秘密警察「KGB」は、再び弾圧を始めた。1965年、KGBはソルジェニーツィンの原稿を押収。レオニード・ブレジネフがソ連共産党書記長になると、ソルジェニーツィンの作品は再度発禁となった。KGBはソルジェニーツィンの監視のために特別部隊を編成しさえした。

  ソルジェニーツィンは、作家同盟から除名され、彼に対する批判キャンペーンがマスコミで始まった。しかしこの頃になると、彼はすでにノーベル賞にノミネートされており、その作品は地下出版(サミズダート)で出回っていた。おまけに彼は何度も、公開状を出して大っぴらにソ連政権を批判した。こうしてゲームは始まった。KGBは彼に出国を提案したが、彼は拒否した。

 ソルジェニーツィンがノヴォチェルカッスクに旅行したとき、KGBのエージェントが彼の後を追い、作家に気づかれないように毒を注入した。ソルジェニーツィンはこう回想している

 「私は、何か刺されたとか注入されたという感覚はまったくなかったが、その日のうちに、左半身の皮膚が痛み出した。夕方には悪化して、大きな火傷のようになった。朝には巨大になり、左の尻、左半身、そして腹と背中の全体に広がった…」

 彼の苦痛は3ヶ月も続いた。後年の研究で、作家は致死量のリシンを注射されたことが分かった。だが彼はどうにか回復できた。

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4. 彼は西側で公式に発言した少数の反体制派の一人だった。ただし欧米の思潮を常に支持したわけではない

 1974年、ソ連当局はソルジェニーツィンの強制国外追放を決定。彼は拘束され、ドイツに送られた。彼の家族は、一ヶ月後に出国を許された。一家はチューリッヒに居を構え、ソルジェニーツィンは、反ソ活動を非常な熱意で再開する。

 しかし作家は、西側のリベラルなメディアの傾向に媚びようとか迎合しようとかいうつもりはなかった。彼は、正教と共産主義のイデーが混然となった思想の持ち主であり、フランコの独裁政権への支持を表明したこともある。これは、リベラルなマスコミを怒らせた。

 彼はまた、仲間の反体制派や反ソ的な作家も批判した。ソルジェニーツィンは誰にも妥協することはなかった。リベラルな西欧のジャーナリストからも軽侮された彼は、アメリカに移住し、バーモント州に定住して、孤独な生活を送った。

5. エリツィンとプーチンが敬意を表しても、ロシア政府批判をやめなかった

 1990年、ソルジェニーツィンのソ連の市民権が復活。彼の作品の多くが、故国で自由に出版されるようになった。1992年、ロシア連邦のボリス・エリツィン初代大統領は、ソルジェニーツィンと長時間電話で話した。ついに1994年、作家はロシアに帰還し、ロシア連邦下院(国家会議)の前で演説した。モスクワで彼は、アパートと別荘を与えられた。

 だが、1998年にロシアの最高の褒章、聖アンドレイ勲章を授与されようとしたとき、ソルジェニーツィンは、ロシア当局とその行動を――主に国有財産の民営化と第一次チェチェン戦争を――嫌っていたため、拒絶した。

 その後、ウラジーミル・プーチン大統領の時代には、やはりソルジェニーツィンは、ロシア政府の行動の大半について懐疑的であったが、ロシア文化勲章をはじめ、いくつかの賞を受賞している。