冗談を習得するには:インターネット風刺画家の助言

カルチャー
エカテリーナ・シネリシチコワ
 面白いことを言うためには、生まれながらの喜劇役者である必要はない。風刺画家になるためには、絵が上手く描ける必要はない。人気風刺画ブログ「Komikaki」の筆者、ロシアのインターネット最大手「ヤンデックス」元職員のキリル・アナスタシン氏が、自分の趣味でどのように人気を得たかを話してくれた。

 ロシア人ゴールキーパーのイーゴリ・アキンフェエフの足が国民的英雄となり、ワールドカップの主要なインターネット・ミームとなるとは誰も予想していなかった。先のワールドカップでのロシア対スペインの歴史的な一戦の後、彼の足は「神の足!」と呼ばれることになる。この出来事の後、ロシアは長い歳月を経て久しぶりに準々決勝まで駒を進めた。

  しかし一本の脚が代表チームそのものより人気になる前、40歳のキリル・アナスタシン氏はスタイラスペンとiPadを手に取っていた。多くの人と同様に、彼も試合の中継を見ていた。ゴールキーパーの足にボールが当たった15分後、彼はこれを投稿した。

瞬間を捉える

 「実際のところ、ロシア代表があの試合で勝ったのは、逆方向に跳びながらも足でボールに触れたアキンフェエフのおかげではない。さまざまな要因があったわけで、チーム全体の功績と言える」とアナスタシン氏は話す。

  だが彼は(結果論として)試合の最後のエピソードである足が全栄光を手にしたことは理解している。そこで彼は何をしたか。この出来事を最大限に利用した。足の記念碑を建てたのだ。

 これは現実には起こり得なかったが、しかし当時はまさにこれが話題の中心だった。彼の絵はテレビでも放送された。彼は瞬間を捉えたのだ。そしてアナスタシン氏が考えるように、これは成功の一要素に過ぎない。

 「確かに、何らかの仕事の成功の原因をよく考えてみれば、第一に内容の良さだ。ちゃんとした冗談がなければ話にならない。」

「自分のことだ!」

  アナスタシン氏は幼少期から絵を描いていた。両親は彼が壁を汚すのを許していた。

 「ずっと人を笑わせるのが好きだった。学校では自分の風刺画を同級生に見せ、反応を見ていた。彼らが笑えば、天に舞い上がる心地がした。」 彼の初めてのレギュラーキャラクターとなったのはドク(心理療法士)だ。

  今年も秋が来た。灰色で鬱陶しい10月。「ドクは秋の鬱に抑圧されている。ドクがだめなら、この時期誰に診てもらえば良いのか」とアナスタシン氏は振り返る。彼が風刺画を初めてインスタグラムに投稿したのは6年前のことだ(今では28500人のフォロワーがいる)。

 アナスタシン氏は自分が「非常に夏型の人間」で、冬が半年続くような国で暮らさざるを得ないことに大変苦しんでいると言う。だが、冬の間だけでもロシアを去ればどうかという質問に対しては、彼は肩をすくめる。「良い質問だが、それは無理だ。常に地獄のように忙しい大きなプロジェクトに関わってしまうから。」 彼はこう言うと、まさに我々が話していることを理想的に描いた一枚の絵を見せてくれた。

  彼のプロットや登場人物は、周囲の観察、自分の発掘、見たことや聞いたことを滑稽な絵に仕上げる能力によって生まれている。「私がやっていることは、『ザ・ニューヨーカー』風の、政治色を含まない風刺画にかなり近い。日常生活や日常的な登場人物。政治家は毎日台所にいるわけではない。現実の人々の生活が無限のアイデアの源泉だ。」

  「自分のことだ!」――これこそが見る者との共鳴の秘訣だとアナスタシン氏は考えている。「自分の作ったものを気に入ってもらいたいなら、それは誰かにとって馴染みのあるものでなければならない。見る者に『自分のことだ!』と思わせなければならない。自分に今朝起きた出来事。あるいは、昨日自分の服に茶をこぼしたこと。あるいは女性との交際関係。あるいは気が狂いそうになる年末の締め切りの嵐。これを絵で表現するには、年末に人々が何を生き甲斐にして生活しているかを感じるだけで良い。」 

 性差別者でないのなら、性差別を批難することを恐れずに

  鋭敏なテーマで風刺画を制作することは、常に一線を越える危険性を孕んでいる。経験豊かな風刺画家でも陥ってしまう罠だ。「ヘラルドサン」のセリーナ・ウィリアムズの風刺画や、悲劇につながった「シャルリー・エブド」のムハンマドの風刺画がその例だ。

  アナスタシン氏は、「ザ・ニューヨーカー」の元マンガ編集者ボブ・マンコフ氏の「『ニューヨーカー』のマンガの分析」という講演を見ることを薦めている。マンコフ氏はここで、敏感な問題を避ける方法や、9.11のようなテーマに対して彼らがいかに慎重に取り組んだかを語っている。

  とはいえ、内部の検閲は概して作品をだめにすると彼は考えている。ここでアーティストを助けてくれるのは、奇妙なことに、自分は正しいという信念だけだ。

 「私は政治をテーマにすることはないが、それでも時々問題は起きる。例えば、私の作品に『パパのベルトのエキス』という風刺画がある。人格形成のトレーニングに関するもので、女性に向けて描いた。」

 「これをユーモア抜きで解釈し、私が子供を鞭打つことを奨励しているとか、私が性差別者であるとか考える人々がいた。この場合冗談を言わずにどうすべきか。私は自信を持って自分が性差別者ではなく、虐待に反対の立場だと言うことができる。私が性差別と解釈され得ることについて冗談を言う時は、これは解釈する側の問題だ。私の問題ではない。私はただ現実世界から題材を取っているだけだ。」

パラドックス

 アナスタシン氏は、ユーモアの中には常にコントラストや何かしらの矛盾、あるいはパラドックスがあるものだと考えている。ユーモアの中では、日常生活で決して交差しない出来事や現象が交差する。例の足の記念碑のように。

  あるいはこのゴジラと自動車のように。 

  だが、コントラストの探求は最も難しいことだ。冗談を習得するのに役立つ参考文献はこちら。

簡素さ

 絵が上手に書けない人に朗報。最近、表現の簡素化の傾向が見られる。アナスタシン氏の考えでは、複雑で凝った絵は、棒人間の要領で描かれたものと違い、「1.5いいね」しか集められない。

 「現代のユーモアコンテンツ利用者は口うるさくない。絵が下手だからと難癖をつけてくることもない。トロールフェイスの描かれたインターネット・ミームを見てほしい。原始的だ。しかし見る側もこれに慣れているのだ。」

  これはアイデアにも関わっている。簡素であればあるほど良い。

 「私には、ユーザーの人気という観点からは『失敗に終わった』作品もある。例えばこの『賢い人向けの絵』。『ベドモスチ』紙の経済評論家はある時これを『IQのキャプチャ』と名付けた。」

  だがこれも経験の内だと彼は考えている。彼はこう言う。「時々無性に何かを表現したくなるものだ。」