1. ディーナ・ガリポワ、“最後に私は言う”(А напоследок я скажу)
ディーナ・ガリポワはロシアの古典的なロマン映画の魅力的な演出で有名になった。これは彼女の優れたパフォーマンスの一つで、ロシア映画『残酷なロマンス』の有名な劇中歌だ。
2. ミハイル・ジトフ、“La La La”
アルハンゲリスク出身の26歳、音楽の神童ミハイル・ジトフは幼少期に歌を始めた。変わっているのは、彼の子供時代のアイドルがホイットニー・ヒューストンだったということだ。広い声域と正確なピッチを持つミハイルはサム・スミスとノーティー・ボーイの“La La La”を、“ゴロス”のスター、マリア・パニュコワのコーラスに合わせて熱唱した。
3. 修道司祭フォティー、“レンスキーのアリア”
32歳の修道司祭フォティーは、彼の精神的指導者である府主教クリメントから特別の祝福を受け、ゴロスに参戦した。フォティーは十代まで音楽を学び、2005年に修道士と正教会の司祭になることを決意した。ロシア正教総主教キリルは、フォティーの人気を通して多くの人が正教会の信条を再発見していると指摘している。
4. アントン・ベリャエフ、“Wicked Game”
現代ジャズのバンドTherr Maitzのメンバー、アントン・ベリャエフは最もスタイリッシュなロシア人アーティストの一人で、多くの慈善活動も行っている。アントンはロシアの主要なタブロイド紙に何度も“最もスタイリッシュなロシア人アーティスト”や“今年の人”として選ばれている。ここでクリス・アイザックの“Wicked Game”をカバーする彼のパフォーマンスを見れば、彼の技術の高さがよく分かるはずだ。
5. マリアム・メラボワ、“我が心のジョージア”
マリアム・メラボワは幼いころからジャズの勉強をしていたが、故郷のエレバン(アルメニア)からモスクワへ来たとき、彼女は自分の声を聴いてもらえるよう努力しなければならなかった。マリアムはモスクワの有名なジャズクラブBlue Birdでクロークの管理人として働きながら経験を積んだ。彼女はジャズの名手たちの演奏を聴き、技術を磨いた。マリアムはレイ・チャールズの不朽の名作“我が心のジョージア”をカバーした数少ないロシア人の一人だ。
6. ナルギズ・ザキロワ、“スティル・ラヴィング・ユー”
ウズベキスタンのタシケントで有名音楽家の娘として1995年に生まれたナルギズ・ザキロワはニューヨークへ転居し、そこでさまざまな仕事をする傍ら音楽のキャリアを積んだ。アメリカのXファクターでは成果を出せなかったが、その後挑戦した“ゴロス”で彼女はロシアにおけるスターとしての地位を手にした。
7. エラ・カン、“絶滅危惧種”
ウズベキスタンのサマルカンド生まれで人生のほとんどをサラトフで過ごした朝鮮人イリーナ・ブルチェエワは、ロシアで最も洗練された技術を持つ一人、ダニール・クラメルにジャズの指導を受けた。彼女は舞台上での名前に朝鮮人の祖母の実名エラ・カンを選んだ。ここで彼女はダイアン・リーヴスの“絶滅危惧種”の歌唱を披露し、ロシア国内での名声を得た。