世界的に有名になった才能ある3人のロシア人

Legion Media/Global Look Press/Wikipedia
 ノーベル賞ノミネート者、抽象芸術の創始者、「つやのある」雑誌の革新者:3人ともロシア風(ア・ラ・ルス)に育てられたが、海外で成功し称賛を得ている。

1. ワシリー・カンディンスキー、画家、抽象芸術の創始者

ワシリー・カンディンスキー

 カンディンスキーは、成人後、最初の頃は、ロシアで法律の専門家として働いていたのだが、30歳になってから、すべてを変えようと決心した。

 カンディンスキーは就職して予想通りの道を歩いていたのだが、モスクワ大学法学部法律学部の尊敬される准教授だった彼は、ある日、フランスの現代美術家たちの展覧会を見に行くことにした。

 1895年にモスクワで開催された印象派の展覧会、とりわけ、クロード・モネの絵画『積みわら』は、カンディンスキーに多大なインスピレーションを与え、彼は画家になろうと決意した。その時、カンディンスキーは30歳だったので、この計画を行動に移すのに長いこと待つことはしなかった。

 1896年にカンディンスキーはミュンヘンに移り、そこでドイツの表現主義者たちに出会い、いくつかの芸術運動に参加した。ナチスが、芸術家たちの組織であるバウハウスを閉鎖した時、カンディンスキーはアクティヴなメンバーだったのだが、妻とともにフランスに移り、最終的にはフランス国籍を取得している。

 カンディンスキーは、抽象芸術の創始者の一人であると同時に、「青騎士」の結成メンバーでもある。彼の最初の抽象画が登場したのは1910年で(この年は、公式に抽象絵画の始まりとされている)、1911年には、彼の著書『抽象芸術論―芸術における精神的なもの』が出版され、抽象芸術の新たなムーヴメントの主要な理論的基盤となったのだ。

 カンディンスキーの抽象芸術理論によれば、色、線、幾何学模様の組み合わせは、視覚や聴覚や味覚などを多様に結びつけることができるという。

 「色は魂に直接影響を与える。色は鍵盤、目はハンマー、魂は多くの弦を持つピアノだ。芸術家は、魂の内に振動を起こすために、いずれかのキーに意図的に触れて演奏をする手である」と、カンディンスキーは著書に書いている。

2. ウラジーミル・ナボコフ、作家、詩人、翻訳家

ウラジーミル・ナボコフ

 ナボコフの最も有名な小説『ロリータ』は、十代の女の子と成熟した男の親密な関係にまつわるもので、1955年に英語で執筆だれた。10年後に、作家は自分でロシア語に翻訳している。しかし、この作家の初期の12作品はロシア語で執筆されている。

 ノーベル文学賞にノミネートされたこともあるナボコフは、ロシアの貴族階級の家庭に生まれた。サンクトペテルブルクで過ごした人生の最初の20年のあいだに、ナボコフは古典的な教育を受け、自身の家を所有し、叔父から数百万ルーブルの遺産を相続している。1917年の革命が起きていなければ、この若者は、生まれた国で輝かしい人生を送ったことだろう。

映画『ロリータ』、1962年

 同じ階級の多くの人たちと同様に、ナボコフ一家もロシアから外国へと亡命した。ナボコフは、ケンブリッジ大学で学業を続け、その後、ドイツに移り、初期の短編や詩を出版する。

 ドイツで暮らしている間に、ナボコフは、『マーシェンカ』(1926年)、『キング、クイーン、ジャック』(1928年)、『ルージン・ディフェンス』(1930年)、『処刑への誘い』(1936年)などを含め、ロシア語で執筆した作品をいくつか出版している。

 第二次世界大戦が勃発すると、ナボコフはヨーロッパを離れ米国に渡った。米国では、ほぼ20年近くにわたって、複数の大学で、ロシア文学や世界文学の講義を行った。

 『セバスチャン・ナイトの真実の生涯』(1941年)から、ナボコフは英語での執筆を開始している。『ベンドシニスター』(1947年)、『アーダ』(1969年)、『道化師をごらん!』(1974年)がこれに続く。これらの作品や、『ロリータ』を含むその他の作品が、ナボコフを裕福で世界的な人気作家にしたのだ。

3.アレクセイ・ブロドヴィチ、米国の雑誌『ハーパーズ・バザール』アートディレクター

アレクセイ・ブロドヴィチ

 ブロドヴィチは、今日私たちが知っているように、「つやのある」雑誌(グラビア誌)の産みの親である。しかし、彼が最初に成功したのは、チャリティのダンスパーティ用のポスターコンペティションで、パブロ・ピカソを破って優勝したときだった。ピカソはこのとき2位だった。

 ナボコフと同様に、ブロドヴィチは、1917年の革命後、10代後半の頃に、ロシアを出て亡命したが、ロシア人らと連絡を取り合っていた。彼は、フランスにおけるロシア・シーズン(セゾン・リュス)のプロモーターでクリエイターだったセルゲイ・ディアギレフのところで働き、ポスターや舞台装飾を製作したり、リハーサルや演技中の舞台裏のバレエダンサーたちの写真を撮影していた。

 1930年代初頭に彼は米国に移り、1934年から1958年まで、ニューヨークのファッション誌『ハーパーズ・バザール』のアートディレクターとして仕事をしている。その間、ブロドヴィチは、雑誌の世界で革命を起こした。誌面に、画像とテキストを組み込んだのである。彼は、サルバドール・ダリや、マルク・シャガール、ラウル・デュフィ、ジョアン・ミロ、ジャン・コクトーなどを含め、自分の友人たちを協力者として招いている。

 ブロドヴィチはまた、グラフィックデザインの先駆者でもあり、ファッション写真や広告写真の創始者でもある。彼のスタイルは、同時代の人たちとは根本的に異なっており、そのアイデアは革新的で新鮮だった。彼は、誌面での見栄えが良くなると思えば、画像を切り取って反転させたり、一枚の写真の上に別の写真を重ねたりした。ブロドヴィチは、テキストを誌面に独創的にレイアウトすることでも知られていた。記事と見出しを同じフォントでも、違うアングルで打ち込んだのである。

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