アウシュヴィッツの体験者で精神科医のヴィクトール・フランクルは、著書『夜と霧』の中で、人間は自分の人生に意味を持っていれば、どんな苦しみから切り抜けられると述べている。たとえこの世界に独りきりだったとしても、人生の意味をみつけなければならないと。
19世紀ロシアの古典的な小説を読めば、たくさん考え、この世での自らの使命を探している登場人物たちにきっと出会うことだろう。多くの人が、さまざまな形で神や社会や家族に自分を捧げながら生の意味を見出している。
ニキータ・ミハルコフ監督の映画「オブローモフ」。オブローモフを演じたのはオレグ・タバコフ。
TASS無為と怠惰がオブローモフを定義する特徴であり、彼の人生は全くの無意味だった。何年間もソファに寝転んでいるだけで、彼は怠け者の代名詞となり箴言ともなった。彼とは対照的な友人アンドレイ・シュトルツは野心的で、自分を磨き自己実現を図ることに意味を見出している。しかし、彼の振る舞いは機械的で真の愛を感じることができない。その結果、成功や利益を求めていく中で、シュトルツは基本的な人間の価値を失っていしまう。
この小説の中で、唯一、人を愛することのできる強くて正直な人物はオリガだ。この女性は、オブローモフを、その居心地の良い場所から引きずり出した。けれどもオブローモフは、最終的に、愛や自分の人生観についてこう言うことになる。「哀れな天使よ!どうして私のことをそんなに愛してくれるんだ?それに、どうした私はこんなに彼女が好きなんだ? 出会わなければよかったのに!すべてはシュトルツ誤りだ。彼は自分が病気になったかもしれないと、私たちに愛を譲ったんだ。これのいったいどこが人生だというんだ?不安と興奮ばかりじゃないか!どうしたらこれが、穏やかな幸福と安らぎにつながるというんだ?」
絵画《息子の墓を訪れる老人の親》1874年
ヴァシーリー・ペロフ・トレチャコフ美術館トゥルゲーネフは、父親と息子の永遠の問題について語った初めての人だ。年長の世代は自分より若い人たちを決して理解することはない。彼らの意見が分かれるいちばんの点は、人生の意味についての見解の相違にある。
上の世代の人たちは、人生の最も重要な局面でも、愛や幸福、芸術や自然を楽しむことに余念がない。息子たちの世代は、「古い世界」を拒み、愛をも拒も、何か役に立つことに自分を捧げたいと思っている。主人公は、医者になろうと考えているニヒリストのバザーロフだ。彼は情熱の奴隷にならぬよう愛をあきらめるつもりでいる。
彼の愛するアンナ・オディンツォヴァが、将来についてどう考えているのか、実のところあなたは何者なのかとたずねると、彼は、自分は医者だとだけ答える。彼は、意図して、より大きな人生の目的を口にしない。なぜなら、一片のパンを口にするために、「そんな抽象的なこと」は必要ないからだ。
イワン・プイリエフ監督の映画「カラマーゾフの兄弟 」(1969年)、アリョーシャを演じるアンドレイ・ミヤフコフ。
Sputnik私たちは最近、この小説は神について書かれたロシア文学の主要な一冊だと書いた。事実、この「意味探し」の探求はすべてドストエフスキーから始まったようだ。ドストエフスキーと、彼に影響を与えたサンクトペテルブルクはの陰鬱さは、なぜ、そして、何のために生きるのかを人々に深く考えさせたのである(ドストエフスキーはシベリアの収容所にいた際に、こうした問題を考える多くの時間を得た)。
アリョーシャ(修行僧)とイヴァン(無神論者)が神と人間について議論している。あなたはどちらの立場に近いだろうか?
〈彼(アリョーシャ)は真剣に深く考えて、神と不死は存在すると確信するやいなや、無意識に自分にこう言った、「不滅のために生きたい、妥協なんて認めないぞ」。同じように、もし彼が神と不死は存在しないと決めたとしたら、すぐさま無神論者で社会主義者になったことだろう。〉
監督ミハイル・シュヴェイツェルの映画「復活」、1960年。
モスフィルムトルストイは、この特別な小説を自分の最良のものと見なしていた、そして人々が、『戦争と平和』ばかりを誉めると腹を立てたのだった。作家は10年以上にわたってこの作品を構想し執筆したのだった。
一人の女性が、手違いでシベリアの収容所へ送られる判決を受けた。陪審員のネフリュードフ公爵は、これはまったくの不当だと思い、この女性を助けようとする。彼は10年前に彼女を誘惑し、その後棄てたのだった。そのために今、自分の罪を償いたいと思っている。
このときトルストイは、彼の主要な思想のひとつを定義している。「悪をもってして悪と闘わず」だ。
「それが、精神的な生活をしている人にしばしば起こるように、ネフリュードフにも起きたのだ。最初は奇妙で矛盾しているように、あるいは、ただの冗談にすぎぬように思えた考えが、しばしば人生経験によってどんどん確かなものとなっていき、不意に、もっとも単純で確かな真理となることがある。同様に、人間が被っている恐るべき悪から確実に救われる手だてとなるのは、人間が神の前には罪深いものであり、それゆえに、誤りを犯した他者を罰することはできない、なぜなら彼らは神の大切な者たちだからだ、ということを常に知ることであった。トルストイにこのことを明確に理解させたのは、刑務所や拘置所で目撃した恐るべき悪と、この悪の加害者たちの穏やかな自己満足のすべてが、不可能なことをやろうとする人間の結果であったということだった。自分自身が悪でありながら、悪を正そうとしているのである。
コンスタンチン・スタニスラフスキーに、モスクワ芸術座で上演された『どん底』。
巡礼者のルカは浮浪者たちの木賃宿に来て、様々な人生の物語を持つ多くの乞食に会う。彼は全員の話を聞き、援助を申し出る。「私にとってはまったく同じさ。いかさま師なんて私は気にしない。私には悪いノミなんていないんだ。彼らはどれも、黒くて飛び跳ねるものだ」と彼は言った。
どん底にいるときにだけ人は本当の顔を見せる。それが誰であろうと、困っている人を助けることが最高の道徳だとルカは考えている。「でも我々はみんな人間だもの。どんなに気取ってようが、よろよろと歩いていようが、生まれて、そして死んでいくんだ。こうして私が観察していると、利口な者ほどますます忙しくなり、生きてくほどに悪くなっていく、生活が悪くなればなるほど、もっとましな生活が欲しくなる」。
もう一人の登場人物である無作法なサーチンはルカとは正反対だ。ルカは時々、罪のない嘘をつくことがあるが、サーチンは何があろうとも真実を守る。ゴーリキーは後に、より良いのはどちらなのか、真実なのか、それとも、思いやりと悪意のない嘘なのか?という問いを提起したかったのだと記している。より必要とされるのはどちらなのだろうか?一個の人間は、同情よりも高いところにあるべきだとゴーリキーは考えていた。
ボールベアリング工場の労働者、1930年代。
Sputnikこのディストピア小説は、悲観的な視点を与える作品で、意味を持つものが何もない。労働者たちは、幸福なプロレタリアの未来のための住居を建設している。彼らは機械のように、食べて寝るためだけに休憩を取り、何の感情もないように見える。
プラトーノフは、ソヴィエトの公式の言語をなぞっている。そのせいで、主人公たちは口語であるにもかかわらず、非常に形式的な語彙ずくめの役立ずの書類のように話すのである。「しかし、ここには、創造の実体と、各指令の企図と目標があり、小さな人間が普遍的な要素となるべく定められている。ゆえに、我々は可能な限り早急に土台穴を完成させることが不可欠なんだ、そうすれば、この住居は早くできるし、子どもたちはみんな、石壁によって、悪質な風や疾病から保護されるんだ」というような言葉に。
きっと、お役所言葉をたくさんこの作品から学べることだろう。
ドラマ『巨匠とマルガリータ』、2005年。
Goskino, Telekanal Rossiya一冊の本が生の目的となるだろうか?巨匠が自分自身にとって真に問題となっていることを書くとすれば、それは生と死の問題かもしれない。マルガリータが彼の本を生かすために悪魔と契約を結んだとしてもだ。「原稿は燃えない」、だから登場人物たちは、精神的に死んでいる人たちよりも生きているのである。
結果として、永遠なる力が巨匠の運命を決定し、彼の仕事は安らぎと永遠の命によって報いられることになる。
〈「彼(イエス)は巨匠の書いたものを読み、あなたが巨匠を連れだし、彼に平和を与えるようにと仰っています。あなたには難しいことでしょうか、悪霊よ?」とレビのマタイは言った。「何も難しくなんかない。おまえがよく知っているはずだ」とヴォランドは答えた。彼は少し間を置いてからこう付け足した。「おまえが自分で彼に光を与えてやらないのか?」「彼は光を手に入れることができませんでした。安らぎを得たんです」と悲しそうにレビは言った。〉
『モスクワ発ペトゥシキ行き』の上演、チェリャビンスク市。
アレクサンドル・サポジニコフ撮影この残酷な世界では、主人公ヴェーニチカと、生まれたばかりの赤ん坊のように純真な彼の魂の居場所がない。批評家たちは、ヴェーニチカが電車(通勤電車)に乗って向かっているのは、愛する女性と子どものところではなく、神のところだと見ている。彼はずっと生と死について考えながら、イエス・キリストのように受難に耐えている。
「人の生というのは魂の瞬間的なめまいではないのか?魂の陰りも?俺たちがみんな酔っ払っているんだとしても、みんな酔い方が違うんだ、たくさん飲んだ奴もいれば、さほど飲んでない奴もいる。」
誰もが思ってしまうだろうが、この小説(あるいは、作家の定義では長編詩)は、酒飲みについての作品ではない。社会のルールに対する異議申立てなのだ。
イエス・キリストを明確に指し示す一節がある。「人は孤独ではない、それが俺の意見だ。やりたくないとしても、人のいるところへ自分を引っ張り出すべきだよ。でももしそれでもそいつが孤独なんだとしたら、電車に乗って終点まで行けばいい。乗り合わせた人たちに話しかけるんだ、ちょっとすみません、淋しいんですよ、自分の最後の一滴を与えたもう(ちょうど最後の一滴を飲んじまった、ハハハ!)、で、あなたのを俺に与えたまえ、それで、与えてくれたならば、俺たちはどこに向かってるんだか教えたまえ。モスクワからペトゥシキに向かってんのか、それとも、ペトゥシキからモスクワに行ってんのかな?」
そこで、作家レフ・トルストイの愛読書25冊を、あなたの夏の読書リストに入れてみてはどうだろうか。
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