荒野を歩け:ロシア文学きっての問題児が米仏でいかに暮らしたか

セルゲイ・カルポフ/TASS
 2月22日、エドゥアルド・リモノフ(1943年生まれ)が75歳の誕生日を迎える。最も論争を呼び、最も休み知らずの現代ロシア作家の一人であるリモノフは、青年期から反抗的だった。そして亡命中もその反抗は止まらなかった。

 「俺は自分のことを社会のくずでかすだと思う・・・。俺はくずだ。」50冊以上の本を出版してきた、有名だが醜聞も多いロシア人作家エドゥアルド・リモノフの最初の小説『おれはエージチカ』(1976年、ニューヨーク)は、このような書き出しで始まる。

 『おれはエージチカ』はロシア系移民の放浪者エージチカ(エドゥアルドの愛称形)が絶望の淵に立ちながらアメリカで生き延びる様子を描いた物語だ。リモノフは常に、自分が作品の主人公とは同一人物でないと強調しているが、かなりの程度彼自身の物語であることも認めている。

 リモノフは1970年代に西側へ旅立った。戻ってきたのは16年後のことだ。そもそもなぜ彼は母国を去ったのか。

 

仕立屋から亡命者へ

 ソ連を去る1974年までに、リモノフはすでに人生のかなりの部分を生きていた。ハルキウ(ロシア名ハリコフ、現在はウクライナ)出身の田舎育ちの詩人エドゥアルド・サヴェンコは、リモノフというパンクな響きのペンネーム(レモンと、F1手榴弾を指す俗語リモンカの両方を想起させる)を名乗り、モスクワへ移住した。

 初め、彼は生計を立てるため仕立屋として働かなければならなかったが、彼の詩はボヘミアンらのサークル、つまり国家権力を快く思わない芸術家や作家の間で人気を集めていった。1973年に彼はモデルで詩人仲間のエレナ・シチャポワと結婚し、翌年彼らはソ連を出国した。

 なぜリモノフがモスクワを去ったのか、正確な理由は分からない。1992年には、作家はKGBが密告者になるよう彼を説得してきたため、亡命以外の選択肢がなかったと主張している。しかし別のインタビューではリモノフはこう話す。「あれは主に自分が住んでいた場所から離れたいという感情、私の進むべき別の道を見つけたいという意志だった。」

 

どん底で

 とはいえ、アメリカへの移住はリモノフを以前より幸福にはしなかった。彼の妻エレナは、彼らがニューヨークに落ち着いた直後に彼を捨てた。慣れない街で打ちひしがれ、孤独で、知り合いも全くいなかったこの作家(英語は辛うじてできる程度だった)は社会のどん底に転落し、福祉に頼りながらアメリカで放浪生活を送った。

 リモノフが初めて書いた小説『おれはエージチカ』は、この状況から生まれた。作家は没落の淵にある希望を失った男を描いた。哀れでもあり、同時に横柄でもある男だ。罵りとポルノ・シーンとに満ちた怒号の権化である『おれはエージチカ』は、リモノフの“告白”と見なすことができる。主人公のエージチカはエレナを失って涙を流し、男女との無意味なセックスや過度の飲酒、失意の拒絶を通してその悲しみを乗り越えようとする。

 

ニヒリスト、アナーキスト、パンク

1987年

 多くの亡命者とは異なり、リモノフはアメリカの“ブルジョア的”な生活を無視した。『おれはエージチカ』で彼はこう書く。「俺は福祉を受けている。あんたらに養ってもらってるんだ。あんたらは税金を払い、俺は、くそったれ、何もしない。(…)何、払いたくないだって? それじゃあ畜生、なんだってあんたらは俺をロシアからここへ呼んだんだ。(…)文句があるなら自分のプロパガンダを責めるんだな。そいつは強すぎるぜ。」

 この状況はあまり事実に即していない。リモノフはいくつか仕事を持っており、ウェーターやロシア語新聞の校正係として働いたり、百万長者の豪邸で家政夫をしたりしていた。しかし彼は社会ののけ者と交わることを愛した。それはトロツキストの労働者党、浮浪者、パンクロッカーといった人々だ。彼の短篇の一つ『最初のパンク』で、彼は過激なパンクのコンサートでウラジーミル・マヤコフスキーの詩『左の行進』を朗読したことを述懐している。

 

大西洋を渡って

 しかしながら、リモノフは成功を夢見、何としても自分の小説を出版しようとした。およそ35のアメリカの出版社が、『おれはエージチカ』を法外で反文化的なものと断じて、この作品と関わりを持つことを拒んだ。

 そうして1979年に彼はフランスのある出版者と出会う。それまでにマルキ・ド・サドの作品などを発行していたジャン・ジャック・ポーヴェールだ。「彼には大きな恩がある。彼が私を“発見”したのだ。」リモノフはのちによくこう話した。フランスではこの小説に“Le poète russe préfère les grands nègres”(ロシアの詩人は偉大な黒人たちをより好む)という異なる題がついた。

 その後、リモノフに成功が訪れる。彼は徐々に有名になり、執筆活動の収入で生活できるようになった。彼は“虚構の回想録”を書き続けた。アメリカとフランスでの生活、またハルキウでごろつきをしていた青年時代の物語だ。1980年以降、リモノフは詩人で歌手の婚約者ナタリア・メドベージェワとともにパリで暮らした。

 

ロシアン・フレンチマン

1998年

 彼はアパートや仕事を転々としながら1991年までフランスにとどまった。1987年にはフランスの市民権を得ていた。小説や詩を書く傍ら、彼は国際紙の“L'Idiot”や、その他の過激(左右問わず)な立場を想起させる出版物に寄稿した。

 政治に限らず、作家は概してパリでの生活を満喫していたようだ。今でも郷愁とともに回想することがある。彼はのちの本『パリの空の下で』でフランスの首都での散歩をこう叙述している。「私は歓喜に満ちており、時々ロシア語でこう叫んだ。『ああ太陽よ! ああセーヌ川の風よ!』」

 しかしソ連が崩壊するや否や、リモノフはフランスでの生活に終止符を打ち、移行期で混迷を極めるロシアへ舞い戻った。彼は作家というよりは過激な政治家として、全く別人物となって世界の前に立ち現れ、自身の党を立ち上げ、数年間を刑務所で過ごした。だがこれはまた別のお話しだ。

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