セルゲイ・エイゼンシュテイン
ソ連映画最初の天才の一人であるエイゼンシュテインは、「戦艦ポチョムキン」で、1905年に起きた、黒海艦隊の戦艦ポチョムキンにおける水兵の反乱を凄まじい迫力で描いており、世界の映画の古典とされている。
この作品は、後の映画監督、映画製作者たちに巨大な影響を与えた。その一例が、オデッサの階段の場面だ。階段を兵士が下りながら市民を虐殺する場面は有名であり、「アンタッチャブル」(ブライアン・デ・パルマ監督)、「裸の銃を持つ男PART33 1/3」(ピーター・シーガル監督)などの映画でも引用されている。
エイゼンシュテインは、「十月」、「アレクサンドル・ネフスキー」、「イワン雷帝」など、数々の傑作を製作している。また彼は、「知的モンタージュ」と「アトラクションのモンタージュ」の創始者としても知られている。
アンドレイ・タルコフスキー
タルコフスキーはおそらく史上最も有名なロシアの映画監督であり、内外の多くの若手監督が第二のタルコフスキーになることを夢見てきた。全ソ国立映画大学の卒業制作短編 の『ローラーとバイオリン』(監督)は、1961年にニューヨーク国際学生映画コンクールで第一位を受賞した。
54年の生涯の間に監督したのは7作品のみ。「僕の村は戦場だった 」、「アンドレイ・ルブリョフ」、「惑星ソラリス」、「鏡」、「ストーカー」、「ノスタルジア」、「サクリファイス」。だがそのいずれも真の傑作だ。
ジガ・ヴェルトフ
ジガ・ヴェルトフはドキュメンタリー映画製作の創始者にしてかつ理論家。「隠れたカメラ」による撮影など、さまざまな撮影技術を考案し、映画の世界をより豊かなものにした。筋のない無声映画「カメラを持った男」(「これがロシヤだ」)(1929年)は、映画史上最も優れたドキュメンタリーの一つとされている。この実験的映画は、短い断片でできており、それが現代都市生活の混乱を見事に捕らえている。カメラと編集技術の真の百科事典だ。多重露光、ストップモーション、スローモーション、早回し、移動撮影などが駆使されている。
アレクサンドル・ソクーロフ
アレクサンドル・ソクーロフは、内外で最も有名なロシアの現役映画監督の一人であり、多くのドキュメンタリーや映画を製作している。1995年には、ヨーロッパ映画アカデミーにより、「世界の映画監督100人」の一人に選ばれた。
2011年、ゲーテの『ファウスト』をベースとした同名の映画を発表。第68回ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞したほか、カンヌ国際映画祭でもエキュメニカル審査員賞。
大日本帝国時代の昭和天皇を描いた「太陽」、レーニンを描いた「牡牛座 レーニンの肖像」、「ファーザー、サン」、「エルミタージュ幻想」、最新作「フランコフォニア ルーヴルの記憶」などの作品は高く評価されている。
アンドレイ・ズヴャギンツェフ
2003年に初の長編「父、帰る」で、第60回ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞して以来、欧米の主な国際映画祭で受賞者の常連となっている。
長編2作目の「ヴェラの祈り」でカンヌのパルム・ドール(最高賞)にノミネート。3作目「エレナの惑い」(2011年)ではカンヌの審査員特別賞。4作目『裁かれるは善人のみ』(2014年)ではカンヌの脚本賞、ゴールデングローブ賞の外国語映画賞を受賞。アカデミー賞の外国語映画賞にもノミネートされた。
ティムール・ベクマンベトフ
ティムール・ベクマンベトフは、国際的に商業的にも成功をおさめ、脚本家やプロデューサーとしても活躍している。最も有名な作品としては、ロシアで大ヒットしたダーク・ファンタジー「ナイト・ウォッチ」(2004年)とその続編「デイ・ウォッチ」(2006年)、米国映画「ウォンテッド」(2008年)、「リンカーン/秘密の書」(2012年)などがある。
またベクマンベトフは、2012年にラスベガスのCinemaConで最優秀外国人監督に選ばれた。ロックグループ「リンキン・パーク」のミュージックビデオ「Powerless」も製作している。
ウラジーミル・メニショフ
メニショフは、1981年に映画「モスクワは涙を信じない」でアカデミー賞の外国語映画賞。彼は同賞を獲得した数少ないロシア人監督の一人だ。その筋は――
若い娘が妊娠後にボーイフレンドに捨てられるが、それから十数年後、彼女は、辛い人生からのいく分かの救いを仕事と娘に見出しており、大企業の工場長となり、十代の娘の良い母親でもあるが、虚しさを感じている。しかし結局、彼女は真の愛を見つける――。
1985年、かつて俳優であったロナルド・レーガン米大統領は、ソ連の指導者ミハイル・ゴルバチョフと歴史的会談を行うに先立って、ロシア人の心をより理解するために、「モスクワは涙で信じない」を何度も見たという。
エリダール・リャザーノフ
もう何十年もの間、ロシアの新年のお祝いは、彼の映画「運命の皮肉、あるいはいい湯を」(1975年)なしでは想像できない。この映画を大みそかに見て新年を迎えるのが伝統になっているから、これだけでも大衆文化への影響は大きい。
しかし、この作品だけがリャザーノフの成功作なわけではなく、ほかにも多くの素晴らしいソ連時代のコメディを作っている。なかでも人気があるのは、「自動車に注意」、「ロシアにおけるイタリア人たちの信じられない冒険」、「職場のロマンス」など。
彼の最初の長編映画「カーニバルの夜」は、1956年に撮影されるや最高の観客動員数を誇り、ロシアのカルト映画となっただけでなく、エディンバラ国際映画祭でも評価され、特別賞を受賞した。
セルゲイ・ソロヴィヨフ
セルゲイ・ソロヴィヨフは有名な映画監督、プロデューサー、俳優。最も有名な映画は「アッサ」(1987年)とその続編「アッサ 2」(2007年)、「黒バラは悲しみのしるし、赤いバラは愛のしるし」(1989年)など。
「アッサ」でソロヴィヨフは、今なおカルト的な人気を誇るヴィクトル・ツォイなどの有名なミュージシャンを映画に出演させ、サウンドトラックでソ連のロックを使った。例えばボリス・グレベンシコフと彼が率いるバンド「アクアリウム」など。これにより、ペレストロイカ時代のアンダーグラウンドなロックの普及に大きく貢献した。
このほか、ソロヴィヨフは映画「想い出の夏休み」で、1975年の第25回ベルリン国際映画祭で銀熊賞(監督賞)を受賞している。
レオニード・ガイダイ
ガイダイは「ソ連のコメディー王」と呼べるだろう。彼の映画の素朴で魅力的な主人公たちが、ソ連国民に広く認められ、その心をつかんだからだ。彼は、ソ連最高のコメディの大ヒット作を撮っている。「ダイアモンド・アーム」(1968年)、「作戦コード<ウィー>とシューリクのその他の冒険」(1965年)、「コーカサスの女虜、もしくはシューリクの新しい冒険」(1966年)、「イワン・ワシーリエヴィチは職業を変える」(1973年)、「十二の椅子」(1971年)その他多数。
アレクサンドル・ドランコフ
ロシア映画の歴史は、20世紀初頭に始まった。ロシア革命の約10年前のことだ。それは、アレクサンドル・ドランコフが、最初の映画製作会社を立ち上げたときのこと。同社はニュース映画製作に特化しており、数々の重要な事件を捕えた。そのなかには、文豪レフ・トルストイとロシア最後の皇帝ニコライ2世なども登場する。
ドランコフは、ロシア初の映画「ステンカ・ラージン」の監督でもあった。この映画は1908年10月28日に封切られたので、伝統的にこの日が、ロシア映画誕生の日として祝われている。以来、ロシア映画は、ときに浮き沈みを伴いながら、長い歴史を刻んできた。
セルゲイ・ボンダルチューク
ボンダルチュークは、レフ・トルストイの名作『戦争と平和』の映画化で、アカデミー賞の外国語映画賞を獲得した。全4巻の原作にしたがった、4部構成のこの映画は、『戦争と平和』の映画化としては最も優れたものであり、またソ連でそれまでに作られたあらゆる映画のなかで最も高額であった。
戦闘シーンを撮るために、ソ連国防省は特別に1500人の騎兵連隊を編成。この連隊はその後の多くの映画製作に参加した。
映画「戦争と平和」の製作には6年を要し、ソ連全国の58の博物館のコレクションから必要なものを取り寄せた。さらに、40を超えるソ連の国営企業が、当時の兵器、武器、装備を作った。9千着の軍服、1万2千個のシャコー(筒形の軍帽)、20万個のボタン、そしてもちろん、ロシアとフランスのメダルと武器の正確なレプリカも。
ニキータ・ミハルコフ
ミハルコフの「太陽に灼かれて」(1994年)は、カンヌ映画祭のグランプリ、アカデミー賞の外国語映画賞を受賞した。彼の国際的な受賞としては他に、1991年の「ウルガ」でヴェネツィア映画祭の金獅子賞、2007年のヴェネツィア映画祭での生涯功労賞、アカデミー賞でのノミネートなど数多。今日、ミハルコフはロシアで最も影響力のある映画監督・プロデューサーの一人だ。
タチアーナ・リオズノワ
リオズノワの最も有名な作品は、テレビ映画「春の十七の瞬間」(1973年)。これは、ソ連のスパイ、マクシム・イサーエフをめぐる物語で、彼はスティルリッツの偽名でナチス親衛隊大佐になりすましている。原作はユリアン・セミョーノフの小説。このテレビ映画はソ連で作られたスパイものとしては最も成功をおさめ、いまだに強い人気を誇っている。
リオズノワの他の成功作としては、「プリュシハの三本のポプラ」(1967年)がある。たまたまモスクワを訪れた既婚の農村の女性が、首都のタクシー運転手と恋に落ちる話。 アレクサンドラ・パフムトワによる感動のサウンドトラックとあいまって、ソ連映画の伝説となっている。
15. フョードル・ボンダルチューク
フョードル・ボンダルチュークはいくつかの大ヒットを放っており、アカデミー賞に2度ノミネートされている。彼が、アカデミー賞を受賞した父、セルゲイ・ボンダルチュークの才能を受け継いでいるのは明らかだ。
フョードルの映画は、ロシアの興行収入の記録を何度か塗り替えている。「アフガン」(2005年)、「プリズナー・オブ・パワー 囚われの惑星」(2009年)、「スターリングラード」(2013年)は、いずれも国内の興行収入のそれまでの記録を上回った。彼は、現代ロシア映画界で最も影響力のある監督の一人。プロデューサー、俳優でもある。
アレクサンドル・ロウ
アレクサンドル・ロウは、3つのドキュメンタリーと16の長編映画を製作したが、そのうち14作品はおとぎ話だ。「モロスコ」(1964年)、「シンデレラ」(1960年)、「歪んだ鏡の王国」(1963年)、「長いお下げの麗しのワルワーラ」(1969年)、「ディカーニカ近郊夜話」(1961年)などがとくに有名。 ソ連の一世代の子供たちは皆、これらの映画を見て育った。
グリゴリー・アレクサンドロフ
この伝説のソ連の映画監督は、「ヴォルガ・ヴォルガ」(1938年)、「サーカス」(1936年)、「十月」(1928年)で有名。セルゲイ・エイゼンシュテインの「戦艦ポチョムキン」(1925年)では、シナリオ執筆に参加し、出演もしている。
アレクサンドロフのヒット作の一部は、妻で有名女優だった、ソ連のセックスシンボル、リュボーフィ・オルロワとともに作られた。「陽気な連中」は彼女を一躍大スターに押し上げた。
アレクセイ・バラバノフ
伝説のカルト映画「ロシアン・ブラザー(ブラート)」(1997年)で、バラバノフはロシアで一躍有名になった。この犯罪劇は、ソ連崩壊後の1990年代以降の象徴となる。盗み、ゆすりなどの犯罪がロシアに溢れていた当時、若者たちは、この映画が生の現実を捉えたものと受けとった。
映画の主人公は、第一チェチェン戦争帰りの若者ダニラ・バグロフ。彼は連邦崩壊後の社会に自分の居場所を見つけようとするが…。
この映画は低予算で、わずか31日間で撮影されたが、たちまち大ヒットした。 続編「ロシアン・ブラザー2(ブラート 2)」(2000年)も成功。こちらでは、主人公は米国に行くが、ロシアと似たような無法状態を目にする。
スタニスラフ・ロストツキー
「黒い耳の白い犬ビム」(1977年)、「ここの夜明けは静か…」(1972年)、「月曜日まで生き延びよう」(1968年)、「ペンコヴォで起きたこと」(1957年) などが、このソ連の映画監督の代表作だ。「ここの夜明けは静か…」と「黒い耳の白い犬ビム」は、アカデミー賞の外国語映画賞にノミネートされ、後者は、カルロヴィ・ヴァリ国際映画祭でクリスタル・グローブ(最高賞)を獲得。
イーゴリ・マスレンニコフ
マスレンニコフは、アーサー・コナン・ドイルの『シャーロック・ホームズ』シリーズの映画化で有名で、内外で栄誉を受けた。2006年には、主役を演じた俳優ワシリー・リヴァノフは、伝説的推理小説の忠実な再現を行ったとして、エリザベス2世により大英帝国勲章を授けられた。
パーヴェル・ルンギン
パーヴェル・ルンギンは、『タクシー・ブルース』(1990年)で、カンヌ国際映画祭の監督賞を受賞した。主役を演じたピョートル・マモーノフとは、「島」(2006年)でも引き続き協力しており、この作品の上映で、第63回ヴェネツィア国際映画祭は閉幕。
二人は、「ツァーリ」でもコラボし、2009年カンヌ映画祭の「ある視点部門」に出品している。
アレクセイ・ウチーチェリ
著名な映画監督ウチーチェリは、2017年にロシアで「マチルダ」でロシア社会を二分する論争を引き起こした。皇太子時代のニコライ2世とプリマ・バレリーナ、マチルダ・クシェシンスカヤの間のロマンチックなラブストーリーの描写が多大なスキャンダルの種になった。
歴史的資料によれば、両者の関係は、プラトニックな友情か情熱的な恋愛かははっきりしないが、ウチーチェリは後者を選んだ。しかし、正教会の信者は、彼の解釈に憤慨している。
2000年、正教会は、1918年にエカテリンブルクでボリシェヴィキにより処刑されたニコライ2世とその家族を「新致命者」(殉教者)として列聖した経緯がある。
もっともこの映画では、ニコライはまだ即位前の若い皇太子で、あまり聖人らしくは見えないが。
マルク・ザハーロフ
マルク・ザハーロフは、モスクワのレンコム劇場の舞台監督として有名だが、映画のキャリアも豊富だ。「ふつうの奇跡」(1978年)、「十二の椅子」(1976年)、「まさにミュンハウゼン」(1979年)、「愛のかたち」(1984年)、その他多数。
アンドレイ・コンチャロフスキー
コンチャロフスキーは、ロシア人の映画監督では最も際立った存在の一人。欧米の映画祭で多くの賞とノミネートを受けている。キャリアの初期には、アンドレイ・タルコフスキーとともに働き、「アンドレイ・ルブリョフ」(1966年)の脚本を共同で執筆した。
コンチャロフスキーはまた、ハリウッドで製作した作品でも知られ、「暴走機関車」(1985)、「マリアの恋人」(1984年)、「デッドフォール」(1989年)などを製作。
近作「白夜と配達人」(2014年)と「パラダイス」(2016年)はいずれも、ヴェネツィア国際映画祭で銀獅子賞を受賞。
コンチャロフスキーは、ニキータ・ミハルコフ監督の実兄である。
アレクセイ・フェドルチェンコ
フェドルチェンコは、ヴェネツィア国際映画祭でいくつかの賞を受賞している。「月に初めて(Pervye na Lune)」が2005年にドキュメンタリー賞を、そして長編映画「Silent Souls」が2010年に撮影賞(カメラマンのミハイル・クリチマンに対して)。
「草原のマリ人の天の妻たち」(2012年)は、2013年トロント国際映画祭で上映。最新作「アンナの戦争」(2018年)は、1月に開催されたロッテルダム国際映画祭のコンペティション部門で上映されている。
ボリス・フレーブニコフ
ボリス・フレーブニコフは当初、ドキュメンタリーを製作していたが、「A Long and Happy Life」(2013年)や「Till Night Do Us Part」(2012年)などの長編映画に切り替えた。
彼の最近の映画は、すでにロシアの主要な映画祭「キノタヴル」でグランプリ、観客賞、最優秀賞を獲得している。カルロヴィ・ヴァリ国際映画祭とアジア太平洋映画賞での受賞はいうまでもない。「不整脈」(2017年)は、ロシアの病院の医師、職員が毎日直面している問題を描いた作品。夫も妻も医師という夫婦が主人公で、二人は離婚の危機にさらされている。
ニコライ・レーベジェフ
レーベジェフは、1972年のソ連ホッケーチームの対カナダ戦勝利を描いた「伝説の17番」(2013年)で、成功と名声を得た。彼の次作「フライト・クルー 大地と戦え(Ekipazh)」はソ連の飛行機をめぐるディザスター映画のリメイクで、1979年にアレクサンドル・ミッタによって製作された旧作「エア・パニック~地震空港大脱出(Ekipazh)」とタイトルも同じ。
キリル・セレブリャンニコフ
現代ロシアの舞台監督および映画監督としては最も有名な人物の一人。モスクワで人気があるアヴァンギャルド・シアター「ゴーゴリ・センター」を率いている。話題を呼んだ「問題作」のなかには、「犠牲者を演じる」(2006年)、「ユーリーの日」(2008年)、「裏切り者」(2012年)、「生徒」(2016年)などがある。「学生」は、カンヌ国際映画祭の「ある視点部門」に出品され、ヨーロッパ映画賞を獲得している。
アンナ・メリキャン
アンナ・メリキャンは海外で多数の受賞歴があり、現代のロシアの最もエキサイティングな映画監督の一人だ。「ルサルカ~水の精の恋」(2007年)、「愛について」(2015年)、「スター」(2014年)などで知られる。2008年には「ルサルカ~水の精の恋」で、ベルリン国際映画祭のパノラマ部門でFIPRESCI賞(ベルリン国際映画祭国際映画批評家連盟賞)を受賞し、サンダンス映画祭で外国人監督賞。これを受けて、米バラエティ誌は、必見の映画監督トップ10に彼女を含めた。
イリヤ・ナイシューレル(ナイシュラー)
今年34歳のナイシューレルは、当初はミュージシャンとして出発。バンド「Biting Elbows」で演奏していたが、このバンドのミュージックビデオ「バッド・マザーファッカー(Bad Motherfucker)」を製作したところ、2000万人以上が視聴し、米国の映画監督ダーレン・アロノフスキーも賞賛した。
これをきっかけにナイシューレルは、映画監督としてのキャリアをスタートさせ、映画「ハードコア」(2015年)を製作した。
写真:Global Look Press; Ekaterina Chesnokova, Vladimir Trefilov, Ramil Sitdikov, Evgenya Novozhenina, Vasily Malyshev, Max Alpert, V. Kozlov, Yakov Berliner, Galina Kmit, Ruslan Krivobok, Alexander Galperin, Vladimir Trefilov, Grigoriy Sisoev, Valeriy Melnikov/Sputnik