大いなる飛躍か血まみれの悲劇か:ロシア作家は1917年革命をどう受け止めたか?

カルチャー
アレクサンドラ・グゼワ
 ロシアの大詩人アレクサンドル・プーシキンは、18世紀のコサックと農民による大反乱「プガチョフの乱」について、小説『大尉の娘』でこう書いている。「神よ、かくも無意味で何物をも容赦せぬ反乱が二度と起こらぬように」。今日では、「ロシアの反乱は無意味で何物も容赦せぬ」という言葉が、1917年のロシア革命を表すアフォリズムになっている観もあるが、ロシアの大作家たちはどう考えていたのだろうか。

マクシム・ゴーリキー

 ソ連で最も影響力のあった作家の一人、マクシム・ゴーリキー(1868~1936)は、1905年と1917年の革命のいずれをも歓迎した。名高い詩『海燕の歌』(1901年)で、彼は既に「嵐」を予見していた。ゴーリキーは、新たな自由と帝政崩壊は受け入れたが、革命と新秩序が確立された方法にはまったく失望する。

 1917~1918年に書かれた連作論文『時期を逸した思想』で彼は、血を流し、銃で新国家を建設することを止め、そのかわりに、革命の知的、文化的可能性を発展させ、生産的な方法で自由を用いるよう呼びかけた。

 「レーニン、トロツキーとその同志たちは既に、腐敗した権力で毒されている。その証拠は、言論の自由、人権、その他あらゆる権利を扱う、彼らの恥ずべき方法だ。民主主義は、それらを獲得するために戦ってきたというのに。盲目な狂信者や悪意ある日和見主義者たちが、いわゆる“社会革命”の道を歩んでいる...」(1917~1918)

 

アレクサンドル・ブローク

 ロシア象徴主義の大詩人であったアレクサンドル・ブローク(1880~1921)は、革命直後の1918年1月に詩『十二』を書いたが、この作品に対する見方は分かれている。作者は、「赤い大動乱」を黙示録的に描いているが、同時に、強奪と銃撃を正当化する革命を称賛してもいるようだ。詩に登場する12人の赤衛兵は、新しい信仰の十二使徒を象徴する。彼らは、古い信仰を破壊し、「赤いクーデター」に加わるのだ。

 「起こったことのすべてが私に喜びをもたらします。しかし、誰もまだ何が起きたのか理解できません。歴史上これほど大規模なできごとがあった例はないからです。ただ、それは起きることができた。そして、ロシアでしか起き得なかったのです」。ブロークは1917年に母親宛の手紙に書いた。

 しかし数年を経ずして、ブロークは、自分の考えが虚妄であったことに気づいて、これを捨て去った。そして、革命は、帝政よりも過酷な、別の政治権力の始まりにすぎなかったと悟った。

 

イワン・ブーニン

 イワン・ブーニン(1870~1953)は、ノーベル文学賞を受賞した最初のロシア人作家だが、彼は、革命についていかなる幻想ももっていなかった。1918年に彼は、モスクワを去り、ロシア帝国南部の最も重要な港、オデッサに向かい、1920年にはロシアから亡命した。

 「かつてはロシアがあった。今はどこにあるのか?」と彼は日記に書いた。これらの日記の記述は後に、『呪われた日々』と題されて出版された。 そこには、革命とそれに続く内戦の日々が描かれている。

 この題名からも分かるように、ブーニンは、ボリシェヴィキとその「血みどろのゲーム」に対する判断では、はっきり否定的である。「レーニン、トロツキー、ジェルジンスキー…最も低劣で、血に飢え、悪辣なのは誰か?」

 

ウラジーミル・ナボコフ

 ウラジーミル・ナボコフ(1899~1977)は、『ロリータ』で世界的に有名になった亡命ロシア人作家。彼の父は、政治に深く関わっており、ボリシェヴェキに対立するリベラル派政党「憲法民主党(カデット)」の指導者の一人だった。 彼の家族は、革命の直後にサンクトペテルブルク(当時はペトログラード)を離れ、クリミアに移ることを余儀なくされ、1919年にはヨーロッパに亡命した。

 亡命先で父は、革命についての本を書いていたが、ナボコフは、芸術や知的なことがらにもっと興味があった。彼は、革命をロシア文学にとって災厄と受け止めていた。多くの偉大な作家が亡命しなければならなかったし、それ以外の者も、ボリシェヴィキが正しいと考えること、そして国にとって有益とみなすことのために、その能力を用いざるをえなかったからだ。

 ナボコフは、ウラジスラフ・ホダセーヴィチを20世紀最大の詩人であり、プーシキンの伝統を忠実に守る者と考えていたが、その彼に捧げたエッセイで、こう書いている。革命とそれに続く年月は「我々の文学の沈滞の時期」であり、革命は「詩人を注意深く、いくつかの範疇に選り分けた。すなわち、楽観主義者の御用詩人と、その背後の悲観主義者に、また海外の健康な詩人とロシアのふさぎの虫に取り憑かれた詩人とに」

 ナボコフはまたソ連政府が、国内の小世界へ「文学者が優しい注意」を向けるよう要求しているとも指摘した。その小世界とは「トラクターあるいはパラシュート、赤軍兵士または極地探検家など、まあ何でもいいのだ」と。

 

ドミトリー・メレジコフスキー

 ドミトリー・メレジコフスキー(1865~1941)は、ロシア象徴主義の草分けの詩人、宗教思想家で、10度もノーベル文学賞の候補に挙がっている。

 彼は、他の多くの文化人と同じく、1905年の第一次革命は歓迎したが、1917年の10月革命には衝撃を受けた。今やロシアは消えてしまい、アンチキリストの王国が到来した、と彼は書いた。「サンクトペテルブルクの通りを歩きながら、人々の顔を見るとすぐに、あ、これは共産主義者だなと分かる」

 メレジコフスキーは、この革命をロシア国家の“超越的”悲劇だと認識していた。「ロシアでは革命はまったく起こらず、反乱ばかりが起こるように見える。1月、12月、1819年のチュグエフスキー連隊の反乱、コレラ騒動、プガチョフ、ラージン――どれもみな、永遠の奴隷の反乱だ」

 「ボリシェヴィズムは、社会主義らしきものを装っているだけであり、社会主義の神聖な理想を損なっている。このことを欧州は理解しなければならない。ボリシェヴィズムは、ロシアだけでなく全世界にとって危険であることを欧州は理解すべきだ」。メレジコフスキーは、亡命先のリトアニアでのインタビューでこう述べた。

 

ボリス・パステルナーク

 ボリス・パステルナーク(1890~1960)は、名作『ドクトルジバゴ』などで知られ、1958年にノーベル文学賞を受賞したが、ソ連当局の圧力で、辞退に追い込まれている。

 パステルナークは、革命後もロシアに留まった詩人・作家だったから、ロシアの知識人にとって真の悲劇であった革命について、自分の気持ちを公然と明らかにすることはできなかった。しかし彼は『ドクトル・ジバゴ』(1945~1955)で、それを表している。

 この小説は、ペレストロイカの時期まで約30年間禁書であったが、1958年にCIA(米中央情報局)の援助により、イタリアに初めて刊行されている。

 最初、主人公の医師、ユーリー・ジバゴは、革命的なできごとに感銘を受ける。「すばらしい手術ではないか。メスを手に取り、たった一度、メスを見事に振るうだけで、悪臭を放つ潰瘍をすべて切除してしまう」。だが彼は、国で起きていることを見て、心を変える。

 「革命を教唆する連中にとっては、変化や置き換えのゴタゴタが、唯一ピンとくる情熱なんだ。何か地球大のでっかいことを与えてやりさえすれば、後は何でもいいのさ。世界の建設、移行期――それ自体が目的になってしまっている。連中は他のことは何も学ばなかったし、できもしないのだ」。ジバゴは恋人のラーラにこう言う。

 

レオニード・アンドレーエフ

 レオニード・アンドレーエフ(1871~1919)は、1905年の第一次革命を大いに歓迎した一人だった。1906年~1907年、彼は、当時ゴーリキーが住んでいたイタリア・カプリ島に滞在する。

 しかし、他の多くの作家と同様に、やがて革命に幻滅し、1917年の2月革命後に、反動的な新聞「ルースカヤ・ヴォーリャ(ロシアの意志)」の編集部に入る。この新聞がボリシェヴィキを批判すると、ボリシェヴィキは、同紙を強制的に閉鎖してしまう。

 アンドレーエフのスタイルは表現主義的であり、彼自身エモーショナルな人間であったから、物事をかなり誇張するのが常であり、アンドレーエフを高く評価していたレフ・トルストイでさえ或る時、その作品を「こけおどし」と言ったことがあった。

 「7月の累々たる死体を、血の海を、勝利者レーニンが踏み越えた。誇らかな勝者よ!ロシアの人民よ、歓呼して迎えようではないか。勝利者よ、来たれ!最近まで、あなたは何者でもなかった。しかし今や、ほとんど神ではないか、レーニンよ…」。これと同様のエモーショナルで皮肉なスタイルで、アンドレーエフはレーニンを、法と国民全体を愚弄しているとして非難する
  「私は、ペトログラード(現サンクトペテルブルク)の狂気の亡命者たちの積極的な一員だ。反乱や絶え間ない銃撃戦に参加している。狩猟で狩り立てられているウサギみたいなもんだが。ルナチャルスキーだのトロツキーだのレーニンだのの類。それにソビエト、省庁、危機の連続。そして無数の愚か者たち!」

 

アンナ・アフマートワ

 20世紀の最も偉大な詩人の一人であるアンナ・アフマートワ(1889~1966)は、革命とボリシェヴィキの支配下でひどく苦しんだ。1921年に、彼女の夫である詩人ニコライ・グミリョフが処刑され、第二次世界大戦後には、息子レフ・グミリョフが、強制収容所での懲役10年を言い渡された。革命が起きたとき、彼女は不安をもって受け止めている。

 「フランス革命と同じようなことになりつつある。いや、たぶんそれよりも悪い」。1917年の2月革命の直後、3月に彼女はこう書いていた

 「私は、ロシアで起きていることのすべてを、沈んだ気持ちで見守っています。神は私たちの国を罰しています」と彼女は8月に夫への手紙に記した。

 彼女は、他の多くの作家のようにロシアを去ることはなく、ロシアに留まり、多くの詩を書くなかで、ボリシェヴィキの国に対する行為について、自らの態度を示した。

 

すべてが盗まれ、裏切られ、売られ、
死の黒い翼が閃き、

飢えの苦しみですべてが喰らい尽くされるが、

それでも私たちの気分が明るくなったのはなぜ?

 

マクシミリアン・ヴォローシン

 詩人マクシミリアン・ヴォローシン(1877~1932)は、主にクリミアに住んでいたのだが、ある時、モスクワとサンクトペテルブルクの、かつては富裕であった人々が革命の混乱を逃れて来たのを見た。彼がペトログラードに行ってみると、流血の混乱を目の当たりにする。路上に横たわる死体とパニックに陥った人々。 

 「国に放棄する権利がないという“義務的な独占”が存在している。その独占の一つは、流血に関するものだ。国は『私だけが血を流す権利がある。あらゆる私的な流血は禁じられている』と言う。これはあたかも、『私はワイン販売の独占権を与える。アルコールの自家製醸造は禁止されている』と言うようなものだ。この独占権が国家権力によって維持されなければ、民間のアルコール生産が行われる。だから、ロシア革命は長く、血まみれで、残酷なものになるだろう」ヴォローシンは1917年3月に、クリミアでこう書いている

 「政治的事件について言えば、どんどん威力が増していく印象だ。我々の革命は最終的には、ドイツからの挑発の巨大な一結果にすぎぬものとなるだろう。我々は既に、(第一次世界大戦で)ドイツに敗北しているのだから。ツァーリ専制の崩壊は、我々をネズミ捕りに誘い込む、最後のベーコンの一切れであった」。彼は同年6月にこう記している。

 

ミハイル・ブルガーコフ

 『巨匠とマルガリータ』で知られる、20世紀の大作家ミハイル・ブルガーコフ(1891~1940)はどうであったか?

 彼は君主制主義者であり、革命については最初から非常に悲観的だった。彼は、生まれ育ったウクライナ・キエフで、内戦の混乱と悲劇を目撃した。自伝的な小説である『白衛軍』には、それらの事件が描かれている。 彼は海外に亡命したことは一度もなかったが、彼の著作はすべて、新国家と新体制を何らかの形で批判している。彼の作品のほとんどは、長年にわたり発禁となったが、妻が、彼の遺産を救うのを助け、海外に密かに送った。

 ブルガーコフは、10月革命の直後、1917年12月に妹に手紙を書き送った。「最近、モスクワとサラトフへの移動の際に、私は二度と見たくないようなものを目にしなければならなかった。灰色の群衆が喚き、口汚く罵りながら、列車のガラスを壊し、人々をぶちのめしているのを見た。モスクワの家々が破壊され焼けたのを見た…鈍重な獣のような顔」

 「群衆が、押収され閉鎖された銀行の入り口を囲み、飢えた人々があちこちの商店で行列を作り、哀れな役人たちが虐められているのを見た。新聞をめくると、たった一つのことしか書いていない。南方でも西方でも東でも流血騒ぎだと。私は自分の目ですべてを見て、何が起こったのか直ちに悟った」

 革命後、1919年にブルガーコフは、「将来の展望」と題する一連の記事を書き出した。それは次のような言葉で始まっていた。

 「今や、我々の不幸な母国は、恥辱と災厄のどん底にある。“大社会主義革命”が母国をそんなところに追い込んだのだ。多くの人たちに、いよいよ頻繁に同じ考えが浮かぶようになった。…我々は今後いったいどうなるのか、と」

 ブルガーコフはこう予測していた。第一次世界大戦後、ロシアは革命と呼ばれる「悪性疾患」に直面し、ゆえに発展が遅れ、西欧に追いつけるか否か、誰も確信できない…。

 

*本稿に示された見解は必ずしもロシア・ビヨンドのそれとは一致するものではありません。