我は皇帝一家の生き残りなり

皇帝ニコライ2世の家族=

皇帝ニコライ2世の家族=

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 これらの僭称者たちは、「青い血(高貴な血筋)」を世に認めさせるために、ありとあらゆることをやってのけた。嘘もついたし、法廷でも必死に争ったし、とにかく自分はロマノフ家の一員だと盛んに吹聴したが、結局、すべては徒労に終わった。

 人に認められるためなら何でもしようという人間がいるものだが、そういうのは現実には徒労に終わりがちなものだ。この僭称者たちは、1918年の、かの悪名高き、皇帝一家殺害を生き延びたと言い張った。なかには彼らの虚言に引っかかる者もいたが、結局のところ、彼らは狂人かマニアックな詐欺師として暴露された。ロシアの帝冠は、この詐欺師連の手にはついに届かなかったのである。

 例えば、本物のアナスタシア大公女は、両親と姉弟とともに、1918年7月17日に殺害されていた。だが、これが完全に確かめられたのは、アナスタシアとおぼしき遺体が発見され、ようやく2008年に身元が確認されたときのことだ。

 

1. アンナ・アンダーソン、アナスタシア大公女を自称

アンナ・アンダーソン、西ドイツ、1955年=AFPアンナ・アンダーソン、西ドイツ、1955年=AFP

 この僭称者アンナ・アンダーソンは、皇帝ニコライ2世の末娘だと主張した。ロマノフ家、貴族の多くが欺かれたものの、結局、彼女は、皇后アレクサンドラ・フョードロヴナの兄で元ヘッセン大公エルンスト・ルートヴィヒが行わせた調査で、ポーランド人農家の娘フランツィスカ・シャンツコフスカだと判明する(ちなみに、彼女には精神病歴があった)。

 さて、この「アンナの物語」は、1920年代に始まった。当時、彼女は、自殺未遂の後、ベルリンの精神病院に入れられていた。彼女は誰に対しても、自分の名を明かすのを拒んでいたが、患者の一人が、彼女を大公女だと思い込み、この話が幾人ものロシア人亡命者に信用される。2年後、彼女は、自分は実際にアナスタシア大公女だと言い出した。

 1928年、アンナはアメリカに移り、公女クセニア・ゲオルギエヴナの居候になり始めた。クセニアは皇帝一家の遠戚である。しかし、「貴種」の証明は失敗に終わり、アンナはドイツに舞い戻る。

 20年以上にわたり彼女は、欧州の上流社会で、自分の血筋を認めさせようと足掻くが、これまた失敗。1968年にまたもや米国に行き、そこで裕福な男性と結婚し、米国籍を得る。

 1984年、ヴァージニアでアンナは死去。彼女の死後にDNA鑑定が行われたが、 アナスタシア大公女だという、彼女の主張は裏付けられなかった。

 

2. エヴゲニア(ユージニア)・スミス、同じくアナスタシア大公女を自称

エヴゲニア・スミス=アーカイブ写真エヴゲニア・スミス=アーカイブ写真

 アナスタシア大公女を僭称したもう一人の有名な女性は、エヴゲニア(ユージニア)・スミス。本名はエヴゲニア・ドラベク・スメティスコだ。1899年ブコビナ(当時はオーストリア帝国領で、今はウクライナ領)の生まれで、アメリカの作家、アーティスト。1929年にブコビナから米国に亡命した。

 スミスは1963年にシカゴにやって来て、この「Windy City」(シカゴのニックネーム)の出版社に本を贈呈した。その際、彼女は大公女自身から与えられた原稿だと言った。当然、彼女の話を疑った出版社は、嘘発見器によるテストを受けるように彼女に求めたところ、彼女はテストを通らなかった。すると、彼女は前言を翻し、自分は大公女アナスタシアその人だと主張した。そして、驚くべきことにテストにも合格した。

 彼女の『ロシア大公女アナスタシア・ニコラエヴナの自叙伝』は、皇室における彼女の生活がどんなものだったか、そしてボリシェヴィキによる死刑執行をいかに逃れたか、などについて物語ったものだ(フィクションとしては大した作品だった)。

 スミスは1997年にロードアイランドで亡くなり、正教会の修道院に葬られた。

 

3. マルガ・ボーツ、オリガ大公女を僭称

マルガ・ボーツ=Legion Mediaマルガ・ボーツ=Legion Media

 マルガ・ボーツは、皇帝一家の僭称者のなかで、最も成功したとは言わないまでも、かなり成功した部類には入ると考えられている。彼女は、ニコライ2世の長女オリガであると主張した。

 マルガが初めて表舞台に登場するのは、第二次世界大戦前夜のフランスだった。彼女は、「皇帝一家の処刑を奇跡的に逃れた大公女のために」と称して、一般から寄付を募り、その後、詐欺罪で逮捕。裁判所では彼女は、自分はポーランド貴族だと主張した。

 数年後、1950年にマルガは再び姿を現したが、以前の不正行為は、まったく知らないと言い張った。そして、彼女は、オルデンブルク大公国最後の大公世子ニコラウス・フォン・オルデンブルクと、ドイツ帝国のウィルヘルム王子をどうにかして欺いて、自分の主張を信じ込ませた。二人は亡くなるまでマルガに金銭的な援助を与え続ける。

 その後長い間、マルガは沈黙を守っていたが、アンナ・アンダーソン(1の項目)が有名になるや、自分の主張を公に訴え始めた。 マルガはアンナの信用を失墜させるためにあらゆることをやり、自分の“家族”についての本も書いたが、それは決して出版されることはなかった。

 マルガは1976年にイタリアのサーラ・コマチーナで亡くなった。この地で彼女は余生を孤独のうちに送り、ジャーナリストらとの面会を拒んでいた。

 

4. ミハル・ゴレネフスキ(Michael Goleniewski)、皇太子アレクセイを僭称

ミハル・ゴレネフスキ=Getty Imagesミハル・ゴレネフスキ=Getty Images

 ミハル・ゴレネフスキはポーランドの将校で、同国の防諜に従事し、50代後半になると、ソ連の秘密警察KGBと協力し始める。

 ミハルはその後、米CIA(中央情報局)にポーランドとソ連の機密を提供することで、三重スパイになった。 1961年1月、彼は米国に亡命し、正式にCIAのために働き始めた。同年、ポーランドの裁判所は、欠席裁判で彼に死刑を宣告。

 その後しばらくして、米国で働いている間に、彼は自分が皇太子アレクセイ(すなわちニコライ2世の末子で唯一の息子)であると主張し出した。ミハルによれば、皇帝一家全員がまだ存命であるとも。だが、彼を信じた者はわずかだった。

 彼は自らの「青い血」を証明するために、“姉たち”を見つけようと試みた。彼は上述の僭称者ユージニア・スミスと“再会”し、彼女が姉だと主張。スミスも彼を弟と認め、この一件で彼女は再び時の人となった。

 しかし、ミハル関連の書類で、彼が皇太子アレクセイ誕生の18年後(1922年)に、ポーランドで生まれたことが判明する。これに対し僭称者は、自分が血友病患者であるため(皇太子アレクセイはこの遺伝性疾患をもって生まれた)、そのせいで若く見えるのだと強弁したが、彼を信じた者はほとんどいなかった。彼は、虚言を弄したとしてCIAから解雇された。

 ミハルは、1993年に死去するまで、“正当な名前”を取り戻すために戦ったが、そんな幸運には恵まれずじまいだった。

 

5.チェスラヴァ・シャプスカ(Ceclava Czapska)、大公女マリアを僭称

チェスラヴァ・シャプスカとニコライ・ドルゴルーコフ、1919年=Legion Mediaチェスラヴァ・シャプスカとニコライ・ドルゴルーコフ、1919年=Legion Media

 チェスラヴァ・シャプスカが初めて表舞台に登場するのは、1919年のルーマニアであり、ルーマニア王妃マリアの保護を受ける。彼女は当地で、ロシアの公爵ニコライ・ドルゴルーコフ(アレクサンドル・ドルゴルーコフ将軍の息子)と結婚。これが、彼女が大公女マリアを僭称し始めた、そもそもの発端だった。

 シャプスカによると、彼女の “父上”ニコライ2世と召使いたちを除いて、皇帝一家は全員処刑を免れたという。そして彼女は、前述のアンナ・アンダーソンとマルガ・ボーツを“本物”と正式に認めた(彼女は後者を直接知っていた)。

 シャプスカは1970年にローマで亡くなった。死後のDNA鑑定で、ロマノフ家とのつながりは否定される。

 これよりしばらく後、アレクシス・ブライメイアーという男が、ロマノフ家および他の欧州の王家との係累を主張。実は彼は、ルクセンブルクのエンジニアの息子で、ベルギー領コンゴの生まれだった。彼が言うには、皇帝一家はやはり全員処刑されていた――ただ一人、彼の“祖母マリア”(すなわち、この場合チェスラヴァ・シャプスカ)を除いては。そしてこの祖母が、ブライメイアーにロシアの帝位を“残した”のだ、と。

 ブライメイアーは、ロシアの公爵ニコライ・ドルゴルーコフはしたがって自分の祖父であるとして、次のような長たらしい偽名を名乗った。すなわち、アンジュー=ドゥラッツォ=ドゥラソフ=ロマノフ=ドルゴルーコフ=ド・ブルボン=コンデ。そのために彼は後に、本物のドルゴルーコフ家から裁判に訴えられることになる。

 この騙りが失敗すると今度は、オーストリアのケーベンヒュラー家の世子を名乗ったが、今度もまた、ケーベンヒュラー公妃から訴えられた。
 事実は小説よりも奇なり。数年後、彼は、シーランド公国から皇太子アレクセイ・ロマノフ=ドルゴルーコフの名でパスポートを受け取った(シーランド公国は、北海の南端、イギリスのサフォーク州の沖合12kmに浮かぶプラットホームを領土と主張する自称「国家」)。

 ブライメイアーは他にもあの手この手を試み、さらに、多くの貴族に自分 を養子してほしいと依頼もした。この「不運な王子」は、1995年にマドリードで亡くなるまで、王族の一角に食い込むうと必死にあがき続けた。

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