グリゴリー・ラスプーチン=
Alamy/Legion Media「サンクトペテルブルクの街はさながらお祭りだった。道行く人はお互いに呼び止め合い、みんな幸せで、お祝いし合った。知人だけでなく時には見知らぬ人にも挨拶した。街の至る所の 教会では感謝の祈祷が執り行われ、あらゆる劇場で観衆は、国歌の演奏を求め、そしてまた熱心にアンコールを要求するのだった」。これは戦争の勝利や終結を祝ったものではない。1916年12月17日(グレゴリオ暦12月30日)に、ロシアの首都はかくのごとく、貴族グループによって深夜にラスプーチンが殺害されたとのニュースを大歓迎したのだった。
その10年とちょっと前、ほとんど文盲のシベリアの農民は、ペテルブルグにやって来たばかりだった。当時はまだ誰も、間もなく彼の言葉が、国の運命を左右するような事柄を決める際に、まさに決定的な重みをもつことになろうとは、空想もできなかった。
1904年から1905年にかけてラスプーチンがペテルブルクに現れた時、彼はすでに諸国の修道院や聖地を巡礼する宗教者として知られていた。彼は特別な能力を有しており病人を治癒できると言われていた。ペテルブルクでは多くの有力な教会関係者が彼に対して興味を抱いたが、その中には皇帝一家の懺悔聴聞僧である大修道院長フェオファンもいた。一説によればほかならぬ彼がラスプーチンを皇后アレクサンドラ・フョードロヴナと皇帝ニコライ2世に紹介したという。
大修道院長フェオファン(中央)、グリゴリー・ラスプーチン(右側)、 1909年=アーカイブ写真
当時は、禁欲的な宗教者として非の打ち所の無い評判を有している人物たちに対してさえ――例えばフェオファンもその一人だったのだが――ラスプーチンは強烈でしかも好ましい印象を与えていた 。「フェオファンは、ラスプーチンの中に、『神の僕』『聖者』 の面影を見ていた」。こう回想するのは大修道院長の盟友であったベニヤミン府主教だ。
また、教会史が専門のゲオルギー・ミトロファノフ氏は、「 ラスプーチンは山師ではなかった。実際に、独自の世界観と特別な霊的能力を持つ人物だった」と確信している。
皇宮に舞い込むや、ラスプーチンは皇帝夫妻の好意を得た。彼が最も大きな影響力を持っていたのは皇后アレクサンドラに対してで、それは皇太子アレクセイの病気と関係していた。アレクサンドラとニコライの一人息子には、恐ろしい病気、血友病が見つかっていた。多くの証言によれば、この病気が重くなると医師たちはお手上げであったが、ラスプーチンは助けることができたという。皇帝夫妻の娘、オリガ大公女の証言によると――彼女の言葉をウォーレン・イエンは、自著『最後の大公女』で引いているのだが――ラスプーチンが治療に手を出すと、皇太子に好ましく影響したという。オリガがこの「長老」に対してネガティブな感じを持っていたことを考えれば、彼女の言葉はさらに重みを増すだろう。
皇后アレクサンドラ、グリゴリー・ラスプーチン、1908年= アーカイブ写真
ラスプーチンは、皇后をママ、皇帝をパパと呼ぶようになったが、こうした皇帝一家との近しい関係は、素朴なシベリア農民の言動に影響した。歴史家で文芸学者のアレクセイ・ワルラモフ氏が、自著『新説グリゴリー・ラスプーチン』に記しているところでは、ラスプーチンは冬宮での自分のコネを自慢し始めたという。また彼は、請願者達に様々な援助を与え始めた。彼らと、都心の大きな自宅で会い、その願いを聞き、誰も断らないように努めたという。頼まれれば金を与え、また必要と考えれば、政府の要人にも電話した。ワルラモフ氏は次のような例を挙げている 。
ラスプーチンは内務省に電話し、受話器を取った職員にこう命じた。「アリョーシカに電話しろや。おめえの大臣だよ」。「長老」が言ったのは、1915年から1916年にかけて内務大臣を務めたアレクセイ・フボストフのことだった。
1910年~1911年頃になると、ラスプーチンの生活は、かつてペテルブルクに現れた頃の「義人」のそれからは遠いものとなってきた。首都には、彼の飲酒、淫蕩、そしてまた女性を催眠にかける能力に関する噂が、しつこく渦巻いていた。ラスプーチンは、それを非難されると、女たちが自分で近づいて来るんだと弁解した。そして、罪を通じてこそ恩寵の認識に至れる、などと請け合うのだった。
だが、最大の反響を呼んだのは、ラスプーチンと皇后との関係だった。「グリーシカ」は皇后ととその娘たちと一緒に暮らしていると、ロシアでは噂され始めた。「師よ、あなたが私のそばに座って、私はあなたの手に口づけし、頭をあなたの至福の肩にもたせかける時だけ、私の心は安らぎ、休息することができるのです」。これは皇后からラスプーチンに宛てた手紙の一節で、1911年暮れに転載されてペテルブルク中に広まった。ウラジーミル・ココフツォフ首相の言葉によると、これの手紙は「激昂した誹謗中傷のきっかけを与えた」 。もっとも、これらの手紙は、本質的には「(皇后の)神秘的な気分の現れに過ぎなかった」のだが。
手紙をラスプーチンから入手し公表したのは、破門僧イリオドルだと推測されている。彼は最初「長老」の影響下にあったが、その後は不倶戴天の敵となり、ラスプーチンに関する『聖なる悪魔』なる本を出した。
この手紙スキャンダルからまもなく、ドゥーマ(国会)議員の一人が、国会でラスプーチンに関する公式の質問を行ったので、「長老」の名前は、新聞でロシア全土に広まることとなった。こうして、皇帝の権威はさらにもう一つの打撃を被ることとなった。
これらのスキャンダルの後、ラスプーチンは数か月間ペテルブルクを去らざるを得なくなったが、にもかかわらず、プーチンの影響力はいや増すばかりだった。上述のアレクセイ・フボストフ内務大臣、 ボリス・スチュルメル首相は、他の何かの閣僚と同じく、任命をこのシベリアの長老に負っている。
このことは公然の秘密であり、長引く第一次世界対戦を背景に色々と論じられた。 戦争はロシアにとって極めて不利に展開したが、相次ぐ敗戦の原因は裏切りにあるとの噂が流れ、皇后がドイツ出身であることが思い出された。世間では、ドイツのスパイの中にラスプーチンも含められた。
グリゴリー・ラスプーチン、1914年=アーカイブ写真
「長老」の頭上の黒雲は、その濃さを増していった。ワルラモフ氏が書いているように、ラスプーチンはその生涯の最後の数ヶ月間、特に酒量が増えたという。 あたかも彼は自分の死を予見していたかのようで、その予言によれば、彼の死は王朝の滅亡をも引き起こすものであった。
事件の終幕は12月16日に訪れた。場所はツァーリの縁戚、フェリックス・ユスポフ公の邸宅であった。ユスーポフは、皇帝一家の権威を救うべきの陰謀の 組織者となった。彼の回想によれば、ドミトリー・パヴロヴィチ大公、ドゥーマ議員で君主制主義者、ウラジーミル・プリシケヴィチを含む陰謀家たちは、初めラスプーチンに毒入りの菓子を食わせ、その後数発の銃弾を打ち込んで、凍結したネヴァ川の氷穴から沈めた。ラスプーチンの死後2ヶ月で、帝政は覆された。位から引きずり降ろされた皇帝夫妻は、子供たちと共に初めはシベリアに送られ、その後召使いらとともにエカテリンブルグの邸宅の地下で銃殺された。銃殺後、皇帝一家の持ち物から、57枚のイコンがみつかり、そのうち3つはラスプーチンから贈られたものであった。
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