ボリショイ劇場の10の事実

ペトロフスキー劇場、1780年

ペトロフスキー劇場、1780年

 3月28日、ボリショイ劇場が開場240年を迎える。ボリショイ劇場博物館のリディヤ・ハリナ館長に、沿革上のあまり知られていない事実をロシアNOWが聞いた。
  1. 女帝劇場の入札

 ボリショイ劇場の歴史は、ピョートル・ウルソフ公が女帝エカチェリーナ2世からモスクワに大衆劇場を開設することを許された、1776年3月に始まったと考えるのが一般的である。だが宮廷劇場ではないエカチェリーナ2世の大衆劇場の、現代でいうところの入札が、1766年にはすでに公示されていたことが、数年前に明らかになった。応募はフランス人から1件、イタリア人から2件、ロシア人のニコライ・チトフから1件の、計4件あった。落札したのはチトフで、ヤウザのオペラハウス(モスクワのヤウザ川近く)が与えられ、1766年2月21日には初演が行われた。ここからボリショイ劇場の歴史も始まったと言える。

 

  1. 外国人の手に

 チトフは3年後、税金によってほぼ破産し、オペラハウスを維持するために、事業を売却しなければならなくなった。購入したのはイタリア人のベルコンティとチンティ。その2年後に別のイタリア人グラッティが再購入した。その5年後にようやくウルソフ公の時代が訪れる。

 とはいえ、ウルソフ公の建設した建物は開業前に火事になってしまい、イギリスのオックスフォード大学の数学者マイケル・マドックスに事業を売却することを決める。マドックスはパーヴェル・ペトロヴィチ皇太子に科学を教えるため、ロシア帝国に招かれていた。マドックスは建設用地を選び、3階建てのレンガ造りの建物を建設した。この場所が現在のボリショイ劇場の所在地である。1780年12月30日、盛大にオープンした。

 

  1. 喝采屋の元祖か

 マドックス劇場には、約1000席のホール、舞台、オーケストラ・ピットがあった。舞台の真上に貴賓席があり、「目利きたち」が座っていた。このほぼ全員が貴族であった。貴賓席の人々は、客席にサインを送っていた。例えば、2本の指を見せると、全員が大きな拍手をする。この人々はサクラの元祖かもしれない。

 

  1. オペラ舞踏会

 現代の最も有名なオペラ舞踏会はウィーンの舞踏会であるが、ウィーン国立歌劇場が建設されたのは、マドックス劇場のほぼ100年後である。マドックスは当初、劇場に休息室を設けようとした。日中、淑女が交流し、紳士が議論する場である。1788年になって、劇場に仮面舞踏会ホール「ロタンダ」が増築され、舞踏会が開かれるようになった。

画像提供:ボリショイ劇場

 

  1. フランスのプリマ

 今日では少し不思議に聞こえるかもしれないが、ボリショイ劇場の最初のプリマ・バレリーナはフランス人であった。フェリシテ・ヴィルジニー・フリンソルは、ダンサーである夫とともに、モスクワに招待された。マドックスが資金的理由で劇場を手放した後、モスクワ大火などで焼失した建物は再建され、1825年1月6日に新装開館。フリンソルの華々しい舞いで祝われた。

 

  1. 劇場を撤去せよ

 ウラジーミル・レーニンは1918年、劇場の解体を主張した。オペラはブルジョアの芸術、維持費が高額、アーティストは厚かましく、金をほしがると。驚いたことに、劇場を守ったのは、ヨシフ・スターリンと、ソ連文化省の初代大臣アナトリー・ルナチャルスキーであった。

  

  1. ソ連のミューズ

報道写真

 「アポロとミューズ」の天井画は19世紀半ばに描かれた。ソ連政府は1940年、ミューズを「ソ連の労働者風」に描きかえるため、コンクールの実施を決定した。コンクールには、エヴゲニー・ランセレ、コンスタンチン・ユオンら、大勢の有名な芸術家が参加した。第二次世界大戦が始まった際、天井画は空爆で損傷を受け、修復しなくてはならなくなった。このようにして、パーヴェル・コリン作の新しいミューズ「農民」が誕生したのである。

 

  1. 舞台裏の検閲

 帝政時代にも、ソ連時代にも、検閲はあった。帝政時代は、ロシア人の作品に限定された特別な歌詞集があり、作曲家はここからしか選ぶことができなかった。ソ連時代の1948年、ヴァノ・ムラデリのオペラ「偉大な友情」にレーニンが登場人物の一人として加えられていたことを受け、総支配人から首席指揮者までの幹部全員が解任された。この作品が形式主義、歴史的事実の歪曲だとして、ソ連共産党は幹部を批判した。

 

  1. ソ連から亡命

 アーティストにとって、ボリショイ劇場で働くことはいつでも夢であった。ソ連では最も収入が高く、さまざまな特権がつく職業であったため。亡命騒動は1度あった。1979年夏、アメリカ・ニューヨーク公演中に、ダンサーのアレクサンドル・ゴドゥノフは政治亡命を求めた。ソ連政府は妻でバレリーナのリュドミラ・ヴラソワをモスクワに送り返そうとしたが、アメリカが3日間、ヴラソワの飛行機を阻止し、出発させなかった。結局、ヴラソワは説得されて帰国し、ゴドゥノフはアメリカン・バレエ・シアターでのつかの間のキャリアを選んだ。

 

  1. クアドリガの秘密

報道写真

 劇場の有名なアポロンの4頭立て馬車の像は、1825年から存在している。最初の像はアラバスタ製だったが、火災で破損した。当時は現在のような外向きではなく、横向きだった。現在の青銅製の像は、有名な彫刻家ピョートル・クロット(サンクトペテルブルクのアニチコフ橋に設置されている彫刻の作者)の作品であると考えられているが、文書的な証拠はない。

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