ワシリー・カンディンスキー、1913年 |
ワシリー・カンディンスキーは、モスクワの裕福な商家に生まれ、子供時代をオデッサで過ごす。モスクワ大学で、法律と政治経済を学んだ。
民衆芸術との出会いが転機に
カンディンスキーは、1889年にロシア北部のヴォログダでの民族調査に加わり、民衆芸術に開眼。絵画に専念するため、96年にミュンヘンに移る。
1900年ころから、ディアギレフの「芸術世界」のグループと交流し、1909年には、新ミュンヘン美術家協会会長となる。1911年には、「青騎士」を結成した。1910年以来、抽象画を描き始め、代表作のひとつ『コンポジション』シリーズは、この時期に描かれた。
革命後の1918年にモスクワに戻り、芸術文化関係の要職につく。当時はまだ、前衛芸術は、当局から「革命的」と位置づけられていた。カンディンスキーは、美術館システムの確立や美術教育プログラムの作成などに尽くし、のちのバウハウスにも影響を与えた。
深い精神性と神秘性
しかし、カンディンスキーは次第に政治的に孤立するようになり、21年に再びドイツに戻る。翌年からバウハウスに招かれて教官となり、ナチスが政権について閉鎖されるまで、勤務を続けた。その後、フランスに逃れ、パリ郊外に住んだ。
彼は美術評論家としても時代をリードし、モンドリアン、マレーヴィチなどとともに、抽象絵画の創始者とされているが、その深い精神性と神秘性は、一筋縄でいかぬ多面性を示している。
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