インタビュー: 作曲家ショスタコーヴィチのイリーナ夫人

交響曲「レニングラード」、ヴォルコフ「証言」などのこと

 1906年の今日、9月25日は、ロシアの大作曲家ドミトリー・ショスタコーヴィチ(1906~1975)の誕生日だ。

 しかし、いまだにその音楽的真価はそっちのけで、ソロモン・ヴォルコフ編「ショスタコーヴィチの証言」の真贋などをめぐり、政治的プリズムを通して見られることが多いようだ。

 だが、たとえば、彼の交響曲第4番の、いわば異形の美に接すると、「おしゃべりはやめて、音に耳を傾けろ」と言われるような気がする。ソ連体制派か反体制派か、などという次元とはべつのところに生き、創造していた人だったのではないか、という漠然たる思いをいだきつつ、私はかつて、2000年5月29日に、イリーナ・アントーノヴナ夫人に、「作曲家の家」のご自宅でインタビューしたことがある。

 数行をのぞき公にしたことはないのだが、これを機に全文を掲載したい。年齢にもかかわらず、若々しく、異常な芯の強さが感じられる人で、夫妻が生き抜いてきた時代を思わずにはいられなかった。

 インタビューをご紹介するまえに、その前提として、かんたんな解説をつけくわえておこう。まず、問題の書、ヴォルコフ編「ショスタコーヴィチの証言」について。先刻ご承知の方はスルーしていただきたい。

 1979年にアメリカで公刊されたこの本は、ショスタコーヴィチの知人だったヴォルコフが、生前の作曲家の回想、証言をまとめたもので、その痛烈な反ソ的内容が、冷戦末期の東西イデオロギー合戦に乗って、一大センセーションを巻き起こしたが、私の読後感は奇妙なものだった。

 

ヴォルコフ編「ショスタコーヴィチの証言」の奇妙な読後感

 話題になった政治的な部分は、どうもとってつけたような感じがつきまとう。心に残るのは、たとえば、ショスタコーヴィチの恩師で、レニングラード音楽院の院長だったグラズノフの思い出など、個人的なことがらだった。

 マザコンでアル中だったが、どんな対位法上の間違いもたちどころに指摘できる耳をもち、体を張って学生を守ろうとする―。ショスタコーヴィチは、師のあらゆる短所も長所もすべて見抜いたうえで、深く尊敬し愛しているのがまざまざと感じられ、私は感動した。要するに、この本はまぎれもない本物と偽者がまぜこぜになっている印象なのだ。

 

レニングラード神話の表裏

 だが、輝かしい「レニングラード神話」をふくめ、ソ連が喧伝したイメージのほうも鵜呑みにはできない。話をわかりやすく具体的にするために、ここではレニングラード神話にしぼろう。まずは事実関係をおさらいしておくと―

 1941年6月22日ドイツ軍が、独ソ不可侵条約を破って、ソ連に侵入、同年9月にレニングラード(現サンクトペテルブルク)も包囲した。44年1月に解放されるまで、およそ900日間におよぶ封鎖の間、約80万人の市民が、戦いと飢えと寒さで倒れた。

 ショスタコーヴィチは、当時34才で、生粋のレニングラード子(もちろん、生まれたときはサンクトペテルブルク)。戦争勃発当時もそこにいた。彼は、そのままレニングラードにとどまり、第7シンフォニーを書き始め、驚くべき速さで、9月29日には、第3楽章を完成する。

 10月初め、市当局は、彼を妻子とともに、ボルガ沿岸の重工業都市クイブイシェフ市(現サマーラ市)へ強制的に疎開させる。したがって、戦争勃発後、彼がレニングラードにいた期間は一月ほどにすぎない。この点は注意が肝要だ。いまだにロシアでは、彼がずっとレニングラードに踏みとどまったいたかのようなイメージが広まっているからだ。12月27日、クイブイシェフ市で、全曲を完成。

 

国家プロジェクトとしての神話

 1942年3月5日クイブイシェフ市で、ボリショイ劇場管弦楽団により、「レニングラード」初演(指揮サモスード)。コンサートは、ラジオで全国中継される。6月1日、総譜はマイクロ・フィルムでアメリカに空輸され、7月19日、名指揮者トスカニーニとNBC交響楽団によってアメリカ初演。全米にラジオ中継された。

 42年8月9日には、包囲下のレニングラードでコンサートを敢行(指揮エリアスベルグ)。オーケストラは、同市に残っていた唯一の楽団「ラジオ委員会オーケストラ」に、前線から軍楽隊を補充して編成した。「レニングラード」をレニングラードで演奏するために、特別軍用機を仕立てて、総譜を空輸した。コンサート中は、ドイツ軍の砲声を止めるため、特別攻撃まで行った。文字通りの国家的大プロジェクトだった。

 レニングラード市と若きショスタコーヴィチとその交響曲は、一躍、ソ連の祖国防衛、ファシズムとの戦いの輝けるシンボルとなった。

 

ショスタコーヴィチ自身の証言

 ショスタコーヴィチ自身は、こういう国家プロジェクトで祭り上げられることをどう思っていたのだろう? 

 1993年に、ショスタコーヴィチの、終生の親友イサーク・グリークマン宛の書簡が初めて公開された(書簡は、1941年末以降のものしか残っていない)。それを読むと、その内容の「貧弱さ」にびっくりする。「第7」初演当時の手紙は、曲にかんする事実の簡潔な報告、レニングラードに残っている近親者の安否、サッカーに集中している(彼はサッカー狂だった)。言葉、表現も無味乾燥だ。英雄的、パセティックな言葉などどこにも見当たらない。

さわりを引用してみると―

「1942年1月4日クイブイシェフ。

<中略>君の手紙からすると、タシケントにはサッカーの試合はなさそうだ。ぼくは一度タシケントでホッケーの試合を見たことがあるが、おもしろくなかった」。

「1942年2月6日クイブイシェフ。

<中略>ぼくは、昼も夜も、レニングラードに残っている自分の近親者のことを思いだしている。レニングラードからは、めったに便りが来ない。もう食べ物が何もないそうで、犬も猫もいないということだ」。

「1942年6月29日ノボシビルスク。

<中略>今日、ムラヴィンスキーが、ぼくの第7シンフォニーのリハーサルを始めた。7月8日の本番のコンサートが終わったら、クイブイシェフに帰る。みんなによろしく。

追伸。君にサッカーのゲームのプログラムを送ろう」。

 こんな感じだ。せまい話題と簡潔すぎる言葉と、彼のあの激烈なパトスにみちた複雑な音楽とのコントラストは、驚きを誘う。ショスタコーヴィチの真意はどこにあるのか?いずれにせよ、彼が時の人になって舞い上がっていたとはとうてい思えない。周囲には関心をもたず、自分の音の世界に閉じこもっていたということだろうか?

 

ショスタコーヴィチの真意は?

 二つの示唆的なエピソードがある。

 指揮者サモスードは、第7交響曲の終楽章にスターリン賛歌と合唱を挿入することを提案したが、ショスタコーヴィチはこれを拒否した(「イサーク・グリークマン宛書簡」p.35-37)。

 これにかんして、インナ・ロマシュク教授(イッポリトフ=イワノフ国立音楽教育大学)は、こう述べる。

 「これは大きな勇気を必要とする行為です。拒否したことが、どのようなルートでだれに伝わるか分からないからです。当局に伝わり、粛正される可能性だって十分あった。このエピソードは、ショスタコーヴィチの、安っぽいプロパガンダは書かないという明瞭な意思表示です」。

 もうひとつ目を引くのは、独ソ戦中に彼が、4度にわたり義勇兵になることを志願している点だ(「ショスタコーヴィチ回想録」98頁)。これについてロマシュク教授は言う。

 「4度もというのは尋常ではありません。たんなる自己宣伝とか当局のやらせ、演出とは考えられません。他の市民とともにありたい、戦いたいという真の愛国心でしょう。真の愛国心と、当局のプロパガンダに乗っかることとは、まったく別のことです」。

 ショスタコーヴィチは、当時の多くのロシア人とおなじく愛国者であった。そして、自分にできることを全力でやろうとした。そのできることの筆頭は音楽だった。彼の真意を知りたいなら、音楽に耳を澄まさなければならない。結局、そこに投げ返されるように思われる。

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イリーナ・ショスタコーヴィチ=タス通信撮影

イリーナ夫人のインタビュー

―ご主人と知り合われた経緯は?

 私がショスタコーヴィチと結婚したのは1962年のことです。当時、私は、教育大学を卒業して、音楽雑誌の編集部に勤めていました。そこで彼と知り合ったのです。私も、彼と同じくレニングラード出身です。レニングラード封鎖は、子供の頃でしたが、よく覚えています。

 

―ヴォルコフ編「ショスタコーヴィチの証言」について、いまだに真贋論争が続いていますが。

 ヴォルコフの本は、本当の部分もありますが、他の人間のインタビュー、他の本の引用、借用が大半です。彼は、三回、二時間ずつショスタコーヴィチからインタビューをとっただけです。しかも、そのインタビューは、本来はソ連の音楽雑誌のためのものでした。彼は、その原稿を持ってアメリカに亡命し、他の要素を加えて、「ショスタコーヴィチの証言」として出版したのです。この本は、いまだにロシアで出版されていませんが、それは、でっちあげが露見し、批判されるのを恐れているためです(今では、ロシアでもかんたんにオンラインで読める―佐藤)。

 

―ソ連で対抗して出版された「ショスタコーヴィチ回想録」についてはいかがですか?

 1980年にソ連当局は、ヴォルコフの本に対抗して、「ショスタコーヴィチ回想録」を出しましたが、これも、とうてい内容が信用できず、読んでもいません。この二つの本の事件は、結局、東西の政治的プロパガンダ合戦にすぎなかったのです。

 

―「証言」では、ショスタコーヴィチは、指揮者ムラヴィンスキーをまったく評価していなかったことになっていますが。

 たしかに、「証言」では、夫は、ムラヴィンスキーを、「自分の音楽をまるで理解していない」として、強く批判しています。だが、そんなことがあるはずがありません。もしそうなら、あれほど多くの作品の初演をムラヴィンスキーに委ねるはずがない。

 

―「証言」は、従来の「レニングラード神話」をも大きく揺るがしました。同書によると、ショスタコーヴィチは生前ヴォルコフに、交響曲第7番「レニングラード」は、ヒトラーよりもむしろスターリンによるレニングラードと国の破壊を描いたもので、ソ連の全体主義批判に眼目がある、と告白していました。また、「第7」は、独ソ戦ではなく、旧約聖書「ダビデ詩篇」を読んで着想したものだというのですが。

 交響曲第7番の第1楽章のボレロ風のテーマは、もちろんドイツ軍の侵略、破壊とロシア人の葬送を表しています。夫自身、これは「葬送」だと、作曲直後に述べています。その印象から離れる必要はありません。いろいろほじくり返しているうちに、本質からずれてしまいます。交響曲第10番のスターリン批判説も同様です。まあ、政治的に利用したい人はするがよろしい。だれにも禁ずる権利はないのですから。「ダビデ詩篇」を読んで着想したなどという話は聞いたことがありません。

 ―1993年に、ショスタコーヴィチの、友人イサーク・グリークマン宛の書簡が公開されました。それを読むと、その内容の「貧弱さ」にびっくりします。「第7」初演当時の手紙の内容は、曲に関する事実の簡潔な報告、レニングラードに残っている近親者の安否、サッカーに集中しています。言葉、表現も無味乾燥です。これをどう考えればよいのでしょう?

 グリークマン宛の書簡は、信用できます。私も夫も、昔から彼のことはよくよく知っています。ただ、当時の体制のもとでは、当然、手紙のなかで何もかも洗いざらい書くわけにはいきませんでした(当局に開封されるのを前提に、書かねばならなかった―佐藤)。語られざる真実があることを念頭に置かねばなりません。

 夫は私に、音楽の話をすることはありませんでした。概して、彼は、作曲中に他の人に音楽について語ることはなかったのです。

 

―あなたご自身は回想録をお書きになるつもりはありますか?

 ありません。回想録は、およそどのようなものでも、完全に正確であることは期待できないからです。結局、不正確な資料を一つ付け加えることにしかならないでしょう。