アンドレイ・タルコフスキー監督、1980年代の写真 =AFP/East News撮影
アンドレイ・タルコフスキーは、1960年代初めに映画界入りした鬼才世代の最も輝かしい旗手の一人だった。2012年は生誕80周年にあたる。それにちなんで、この秋、日本ではタルコフスキー生誕80年記念映画祭が行われる。
タルコフスキーは「7½」本(7本の長篇劇映画、1本の短篇映画と1本の記録映画)の映画を撮影することができた。だが、生涯を通じて一篇の映画を撮り続けていた。人間についての、真実の追求についての、理想の探求についての映画だ。
ソ連での監督デビュー作はベネチア国際映画祭で金獅子賞を受賞した『イワンの少年時代(邦題:僕の村は戦場だった)』である。
その後、『アンドレイ・ルブリョフ』、『惑星ソラリス』、『鏡』、『ストーカー』、そして亡命を余儀なくされてからさらに3つの作品、『ノスタルジア』、『サクリファイス』、トニーノ・グエッラと共同制作の長篇記録映画『旅の時』が撮影された。
『ストーカー』の一シーンは発電所内で撮影された。
フィルムを現像してみたところ、ショットに全く緊張が感じられなかった。構想自体が間違っていると判断し、撮影技師を替えて撮り直したが、うまくいかなかった。
レンズをより広角なものに替えても、タルコフスキーはやはり満足せずに、こう言った。「そうか。焦点距離を延ばせばいいんだ。遠ざかりながら撮れる場所を探そう」。
だが、カメラは壁際に立っており、遠ざかりようがなかった。そこで、監督自ら脚本家のエブゲニー・ツィムバルと美術担当のドミトリー・ベルゼニシビリとともに壁に穴を開け始めた。
だが、2日がかりの涙ぐましい努力も空しく、タルコフスキーはシーンの出来栄えに納得できなかった。最終的に、そのシーンのための専用撮影セットが造られた。
タルコフスキーが母国でどのように受け止められていたかを物語るエピソードには事欠かない。例えば、1980年に封切られた映画『ストーカー』は全部で196本のコピーが作られ、そのうちモスクワへ配給されたのは3本のみだったが、最初の数か月で200万人がその作品を観た。
イタリアへ映画の撮影に招かれると、タルコフスキーはもはやロシアへは戻らなかった。グエッラと共同で脚本を手がけた『ノスタルジア』は政治とは無縁の作品だったが、やはり疑いをもたれた。ソ連は帰国を求めたが、タルコフスキーは拒否し、裏切り者の烙印を捺された。
ポーランドのクシシュトフ・ザヌッシ監督はタルコフスキーとのアメリカ訪問を回想した。若いアメリカ人がタルコフスキーに「幸福になるにはどうすればいいですか」とたずねると、こう答えた。「まず、何のためにあなたがこの世に生きているかを考えることです。あなたの人生にどんな意味があるのかを。なぜ、この世に現れたかを。あなたにはどんな役割が定められているかを。これを解き明かしてみることです」。
モスクワ国立映画博物館のナウム・クレイマン館長はタルコフスキーが1962年という絶好の時機に監督として登場したとして「それはフルシチョフの『雪解け』が進むのか滞るのかという、この国の歴史における一種の分岐点でした。この転換期に、自らへの問いかけと共に現れたのです」と語る。
監督本人は「この映画(『惑星ソラリス』)によって、私は精神の不屈さや純粋さの問題が、たとえば宇宙の洞察といった一見モラルとは無縁の分野にさえ現れつつ、私たちの全存在を貫いていることを立証したかった」と述べている。
タルコフスキーは1986年12月、がんで亡くなり、パリ近郊のサント・ジュヌビエーブ・デ・ボワの墓地に葬られた。墓碑には「天使を見た人」という文字が刻まれている。
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