ピョートル大帝
1705年の今日、ロシア南部、カスピ海沿岸のアストラハンで、“集団結婚”が行われた。
原因は、ピョートル大帝による「結婚禁止令」布告のうわさだ。当地の娘たちは、今後7年間にわたって地元の男性との結婚を禁じられ、ドイツ人とのみ結婚すべし、との法令が出ると、まことしやかにうわさされた。
そのドイツ人たちは、カザンから当地に送られてくるという。恐怖に駆られた娘数百人がわずか1日のうちに結婚する椿事となった次第。
その後、これまでも地元の役人の横暴に泣かされてきた住民たちは、外国人を殺戮し始め、それはついに暴動、反乱に発展する。
ヒゲ禁止令が火に油を注ぐ
火に油を注いだのは、ピョートル大帝の名高い「ヒゲ禁止令」で、ロシアの伝統的なガウン風の衣服をまとい、長いヒゲをたくわえることが禁じられた。この法令を、地方長官チモフェイ・ルジェフスキーは、きわめて熱心かつ厳格に履行した。
反乱には都市部の貧民、漁業や採塩に従事する労働者、曳き船人夫、商人なども加わった。
だが、「叛徒」たちは、ボルガ、ドン流域の他の諸都市を立ち上がらせることはできず、1705年8月のツァリーツィン(現ボルゴグラード)占領の試みも潰えた。ドン・コサックたちは、反乱を支援するどころか、政府軍に2000名からなる援軍を送った。
政府軍率いるボリス・シェレメーチェフ元帥が反乱を鎮圧できたのは、ようやく翌1706年春のことである。2年間の捜索ののち、モスクワで240名の反乱の指導者が処刑された。
ロシア・ビヨンドのニュースレター
の配信を申し込む
今週のベストストーリーを直接受信します。